チベットの仏像は、彦坂尚嘉の用語では絶対零度の美術、
つまり文明の中の野蛮美術なのです。
そして今日の日本のフィギュアは、気体美術=情報化社会の美術ですので、
ずいぶんと違うものなのですが、驚くほどに似ています。
両方共に《形骸》であるのです。
つまり前近代にも、《形骸》としてのフィギュア的なものはあったのであり、
今日の現代のフィギュアの《形骸》というのは、決して情報化社会特有の現象では
ないのです。
前-近代にも、近代にも、現代にも、《形骸》は生まれて来ているのです。
つまり言いたいのは、
内藤礼の作品として出現して来ている《形骸》というのは、
情報化社会の特有な表現ではなくて、
《原芸術》から始まって、コピーを繰り返し、焼き直しをし続けると
出現してくる表現の劣化としての《形骸》の問題なのです。
コメント欄に、ロンドン帰りさんから、次のような書き込みがありました。
お久しぶりです。
内藤氏が海外デビューには当時親密であったある作家の後ろ盾があったことは有名な話ですが、ここでは触れません。形骸といえば海を撮影して有名になった写真家も同様の位置にいる作家です。はからずも同じ画廊に所属しているところが面白い。また内藤展が行われた美術館が不人気のトリエンナーレのディレクターのいる館ですね。
日本の美術界は作家もキュレーターももっと科学してほしいですね。これでは高学歴な専門家による妙なお遊びにしかすぎません。それ以上に税金の無駄遣いでしょう。
by ロンドン帰り (2010-01-13 09:40)
私の聞き取り調査では、武蔵野美術大学の学生を終わるか終わらない段階で、突然にニューヨークでデビューしたのは、コロンビア大学を卒業して帰って来ていた林洋子氏の、アートプロデュースによるものです。直に林氏から聞いています。裏は取っていない情報です。
ロンドン帰りさんの指摘している「当時親密であったある作家の後ろ盾」ことは、私も噂では聞いていて、それは河原温氏との同棲しているという噂でした。これも事実かどうかは確認がとれているわけではありません。
個人のプライバシーとしての河原温との関係ではなくて、公的な芸術史・美術史上の影響関係の問題として考えたいのです。芸術史的に重要なのは、現在の内藤礼の表現が、1960年代末期の美術の焼き直しをしめしていて、コピー表現特有の《形骸》化を示している事です。この焼き直しを生み出した影響関係は、河原温からではないのか。
ですから、私としては、デビュー時の内藤礼のテントの作品を見たかったのです。
テントの初期作品と、たぶん河原温からの影響で学んだ1960年代末期のトートロジー的な美術の影響を受けた現在の作品は、違いが大きくあるのではないか? と推察しているのです。
誤解されているかもしれませんが、
私は、《形骸》を、いけないと否定しているのではないのです。
いつもblog楽しみにしています。
原芸術から焼き直しを続け、性質が変わっていき、最後には形骸になる。本質的で合点のいくお話だと思いました。
質問を書き込ませて頂きます。もし気が向けば、ご返答いただけたら嬉しいです。
・形骸からさらに変化を遂げる場合があるとは思われますか?それとも形骸は文字通り骸なのでしょうか。
・ユニクロは、CMなど「まとったイメージ」も形骸だと思われますか?UNIQLOCKは形骸という印象は私は受けませんでした。
by メメヒ (2010-01-14 20:05)
「ダーキニー立像」のところまで読んで、日本のフィギュアっぽいな~と思っていた次の瞬間に、私が所持しているフィギュアの画像が突然眼前に現れたのでドキっとしてしまいました(笑)
日本の商業フィギュアは、男性目線にデフォルメ・誇張された肢体表現に特化していると感じるのですが、やはり芸術分析的にも類似しているのですね。
チベットの18世紀の作品にしては、現在のおみやげ人形のような印象があります。古くからこのような作風の物が有るとは意外に感じました。
「形骸」ですが、私含め大多数の日本人の目は「形骸」に慣れてしまっているように思います。
マックのハンバーガー、コンビニ弁当、菓子パン、サイゼリヤ…このような個性や手作り感の排除されたアッサリしたモノに囲まれ、それを全く普通だと思っています。
こうなると、「原芸術」には何とも重たいというか、胃のもたれるような感覚を覚えてしまいます。
by NO NAME (2010-01-15 05:21)
↑上記NO NAMEですが名前の入力を忘れて投稿してしまいました。
大変申し訳ありませんでした。
by ぽん (2010-01-15 05:45)
メメヒ様
コメントありがとうございます。
ユニクロのCM、別のブログで取り上げます。
ぼん様
コメントありがとうございます。
《原芸術》に、重たい胃のもたれるような感覚を覚えられるというご意見は、貴重ですね。ありがとうございます。
それもあって、《原芸術》性を含んだ表現は嫌われて、《形骸》化した作品が、大衆的な人気を取るのでしょう。
by ヒコ (2010-01-15 11:26)
島田忠幸さんの記事を検索していてこのブログにたどりつきました。「形骸」という概念と「なにものでもないもの」という概念提示に驚いています。
「なにものでもないもの」はティエリー・ド・デューヴが『芸術の名において』でデュシャンを論じたときの概念とほぼ同じような気がしますし、「形骸」という表現も、物質化した芸術の呼び名としてはピタリです。(しかも非難している訳ではない)いま彦坂さんの「気体」からではなく、物質のほうから芸術作品を考えようとして、ブルーノ・ラトゥールとモノを勉強しているのですが、「形骸」という概念について考えてみようと思います。
by 小泉晋弥 (2010-01-31 17:46)
小泉晋弥様
「なにものでもないもの」という言葉は、1970年代初頭の私の文章のなかでは、かなりキワードで使っていたように記憶しています。
デシャンの作品、特にレディメードは、おっしゃるように「なにものでもないもの」なっていると思います。ブルーノ・ラトゥールは、面白いですね。「虚構の近代」を今、アマゾンで注文しました。
by ヒコ (2010-02-01 11:50)