三位一体論の崩壊 [生きる方法]

(前略)
私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。





三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。

「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。


つまり、「サントーム」の問題です。
私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。
私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。
私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。
この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。
漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。
この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。
漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?

《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?

一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。
ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。
たとえば科学について。
ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。
そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。

1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)
虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。
聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。
無は存在しません [生きる方法]
思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。
心よりお悔やみ申し上げます。
by 梅谷です (2010-02-20 20:04)
文化は学習の連鎖である(校正2) [生きる方法]
普通の意味で、勉強のできない人という範囲を超えて、
学習の出来ない人が沢山います。
学習というのは、他人の思考を学び、それを吸収する事です。
ですから、学習した人の頭の中には、他人の思考が入っているのです。
しかし自己愛性人格障害の人は、他者排除をしますから、
学習ができません。
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そもそも言語自体が、自分の造ったものではありませんから、
他者のものを使って考えるのです。
言語の他者性というのは、重要なものです。
他人の本を読まない人は、文章を書けません。
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私は今も読書会をしますが、
読書会に参加しないタイプの人がいるのです。
五十嵐太郎さんも、学生時代から沢山の読書会をして来ていますが、
私も大学時代から読書会をくり返して来ています。
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文章を書くためには、人の文章を7倍は読まなければなりません。
私の基本は、キルケゴールと、フッサールです。
フッサールの後に、ジャック・ラカンを読んで来ています。
日本人でいうと、まず内村鑑三です。それに今道友信、谷川雁。
こうした人々の思考をくぐって、考えているのであって、
それは普遍的なものです。
ラカンでいえば、ソシュールの言語学の用語であるシニフィエ、シニフィアンという
言葉を借用しつつ、意味内容を変形しています。
こういう用語の借用と、意味のずらしや、変形は、多くの哲学者や思想家に見られる
ものです。
私の使う、現実界や、サントームという用語の使い方は、
ラカンの用語の借用ですが、内容はずいぶん違ってきていますので、
そのことは、繰り替し断りを書いてきています。
ラカンのように、造語することも重要ではありますが、
他人の用語を使い、変形して行く事も、文化をつくる基本であり、
重要な事なのです。
村八分に耐える事は、日本的な処世術ではない(削除書き換え) [生きる方法]
私自身は、中学生から、村八分にされて、生きて来ているのです。
私はそれに耐えて来ているのです。
いまでも、私の悪口は沢山あるのであって、
それを平然と耐えて生きて来ているのです。
・・・・・・・・・・・・・・
建築家の南さんに誘われてmixiに入りましたが、
書かなくなったのは、村的で、読者の顔が見える様になるからです。
顔が見える関係になると、その人に遠慮して、批評とか言論は成立しなくなるのです。
多くの人は言論が、血によって書かれて来ている事を知りません。
言論人は、殺されるのです。
殺される覚悟で、書いているのです。
美術というのは命のかかっている職業なのであって、
当事者にとっては遊びではありません。
ギャラリー山口さんはお亡くなりになりましたが、
美術家でもゴッホをはじめとして、多くのアーティストが自殺しています。
美術家というのは、命がけなのです。
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私は日本の村の外に出続ける人間です。
ラカンの読書会に来ている人は分かっていると思いますが、
私の人間関係は、移動や、循環は早いのです。
激しく入れ替わって行きます。
固定的な村や島をつくることは、目指していません。
美術史家の富井玲子さんは「彦坂は、移動する標的だ」と書きましたが、
私自身は、脱-領土化をしつづける人間ですから、
みなさんが考えるような固定的なグループを形成してはいません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私はこのブログを無償の行為で書いているのです。
ブログの記事で壊れる人間関係は、沢山あります。
それに絶えて書いているのであって、
無料のブログですから、
読者に読む事をしいているものではありません。
嫌なら、読まないで下さい。
これは日本的な処世術ではありません。
この場合、私のイメージしているテキストは、安岡 正篤の本です。
陽明学者として尊敬はしますが、
私のやっていることは、彼の考え方の外部なのです。
私の方法は日本処世術の外部を生きるところにあります。
小さな門より入れ/軽蔑に耐え(加筆2) [生きる方法]
駄美術というのがあって、駄菓子をもじったものですがグリコのおまけのような、貧しさの中にあって光る、お札のような作品ですね。
by 丈 (2009-12-18 18:22)丈様
コメントありがとうございます。
駄美術というか、低俗美術というのは、基本と言うか、
基盤だと言えます。
制作されている美術作品の80%は最低な駄菓子的な美術なのです。
実は映画論の中には『最低映画』という用語があって、
「エクスプロイテーション映画」の翻訳です。
私自身も『低俗映画研究会』というのを、
大学時代に主催していました。
「エクスプロイテーション映画」というのは、
exploitという言葉通りに、搾取するとか、搾り取るという意味です。
つまり「馬鹿な奴らから金を搾り取るための映画」というのが、
「エクスプロイテーション映画」というもので、
何の事は無い、商業主義の娯楽映画の事で、ハリウッド映画にしろ、
昔の五社映画の80%は、こうした商業主義の映画なのです。
こういうexploitを目指すのは、何も映画だけではなくて、
美術にもたくさんあって、
「馬鹿な奴らから金を搾り取るための美術」というものは、
実は美術作品の主流でると言えるのです。
つまり商業主義の娯楽美術なのですが、
これは古くはミケランジェロ、ティツアーノや、ゴヤ、
そしてマティス、アンディ・ウォーホル、リキテンシュタイン、
さらにはジェフクーンズ、ダミアン・ハースト、村上隆も、
奈良美智も、「エクスプロイテーション美術」であるのです。
この中には、ピカソの大多数の作品も入ります。
ミケランジェロを「エクスプロイテーション美術」というと、
怒る人が、多くいるかもしれません。
しかしミケランジェロの作品は、高く評価され、
多くの影響を与えた事は事実ですが、
彦坂尚嘉の私見では、《第6次元 自然領域》の低い
しかもデザイン的エンターテイメント作品に過ぎないのです。
だからこそ、社会的に大成功したのです。
これについては別のブログを用意しているので、
詳細はそちらに譲ります。
美術史を通して、実は「エクスプロイテーション美術」は、
いつの時代にも大きな流れでありました。
しかも「低俗美術」というのは、実は、
特に1975年以降の主流の美術であると言えます。
高級美術、あるいは上流美術、《真性の芸術》の美術というのは、
忌避され、抹殺されて来ているのです。
今日においては、ほぼすべての美術は低俗美術であり、
駄菓子のような美術なのです。
そういう美術への嫌悪は正当ではありますが、
しかし単なる貴族趣味では、
敗北するしかないでありましょう。
むしろ逆であって、
「エクスプロイテーション美術」のフリをして、
そのキッチュで低俗な表情のしたに、
《真性の芸術》を滑り込ませて行く事が求められているのです。
あるいは、意識的に良い趣味性をとり、
分かりやすい現代美術の定式的なスタイルやイデオロギーを
まとう。
こうした事もまた、商業的に、
つまり「馬鹿なコレクターから金を搾り取るための美術」として
制作されている事が、事実としてあるのです。
実際に多くの人々は、
こうした商業主義が好きなのです。
もともとが、美術は、映画と同様に低俗なのです。
「エクスプロイテーション映画」が、
映画を通して訴える思想も芸術論も、世界に対する知的認識もなく、
単に《気晴らし》の娯楽映画をつくるというもので、
そこにはオリジナリティもなく、平気で人の作品をパクル。
もともと映画をそれほど好きなわけではなくて、
単に商売にすぎないという人々が蠢(うごめ)いている世界です。
同様の事は現代アートにも言えて、
多くの美術家は、美術を通して訴えるべき思想も芸術も、
世界に対する認識も無くて、
それでも社会的に了解にのるそれらしきコンセプトを、
もっともらしく書く事で了解されているだけなのです。
その表層的な理屈や定番のイデオロギーを、
また馬鹿な人々が文字通りに信じるという、
馬鹿でアホで、能天気なお祭りが繰り広げられているのです。
そこにはオリジナリティも無く、平気で他人の作品を焼き直し、
自分の作品として発表する。
何よりも、美術の作家自身が、
もともと美術はそれほど好きではなくて、
単に《自己愛》性人格障害者で、単に自己中毒者の商売に過ぎない
美術が蠢(うごめ)いているのです。
低俗美術というのは、理性脳による抑制が無いのです。
美術のイラスト性、装飾性、官能性という、
人間の脳の最深部にある原始的な本能や欲望という劣情に訴える
だけが、美術の本質だと思っているのです。
今日の社会は、ある意味で自然なのであって、
ジャングルなのですが、美術も芸術も、同様に、
ジャングルの中をサバイバルする、低俗な商売になったのです。
それが村上隆が提起した、芸術起業論なのでありました。
絵画の起源
人類の歴史の中には、大きな絵画=建築美術、中ぐらい(基準は20号)
の絵画=流通美術、そして小さな絵画=本の美術/版画・写真というのが、あるのです。
つまり絵画はひとつではなくて、起源が3つあるのです。
日本の中でされている絵画論は、絵画をまるでひとつの起源から生まれて来たかの様な議論の仕方で、抽象的に論じているのです。そういう抽象論は、不毛なのです。
それはまるで、人間もゴキブリも同じ生物だとして、生物を抽象的に論じているのと同様なのです。
「木」という言葉で指し示す物が、松の木から、ツツジ、榛松、さらには木の橋から、割り箸まで指し示しえるように、「絵画」という言葉が指し示す物は、実はひとつの絵画ではなくて、複数の起源から生まれた多様な絵画なのです。その中には低俗絵画も含まれているのです。
この絵画の複数性への認識を欠いた議論は、単なる抽象論に過ぎないのです。
小さな絵画
ドローイングというのは、基本的には小さな美術で、本の美術です。浮世絵も、版画ですので、この小さな美術に入ります。
小さな絵画の多くは、コレクターのところでしか見られませんが、例えば瑛九のマッチ箱代の絵画は、なかなか良いものでした。
モローの小さな絵画は、ヨーロッパの美術館には展示してありましたが、胸を締め付けられる様な感動があります。
アンドレマッソンの作品も、小さなものが多くて、MOMAでも、知っていて探さないと見損ないます。
小さな絵画を、日本の多くの現代美術家は、見る事もしないで、軽蔑の眼差しで、見も市内で切り捨てる態度を取りますが、それは間違いです。
扇面
狩野派は、狩野永徳のように、安土桃山城の大壁画を描いていますが、しかし実際に食べるために描いているのは扇面の絵画です。
この扇面画は、普通に見ると、良いのか悪いのか分かりにくい物です。
同じ事は明治の巨匠である富岡鉄斎にも言えます。1000号を超える大作を数多く描きながら、しかしコレクターに人気のあったのは、扇面なのです。しかし私でも、この扇面を見て、なかなか分かりにくいということを経験しています。

小さな作品というのは、実はコレクター以外の普通のただ見の人間には鑑賞が難しくて、人に嫌な思いもさせます。
たとえば菅井汲の小さなシルクスクリーンの作品は、嫌な感じがしました。
ジョン チェンバレンの小さな彫刻も、嫌な感じで見た覚えがあります。
自分の作品も嫌な感じを持つ人がいるだろうとは思います。
しかし、私自身は、もともと小さな作品をつくることをし続けて来ています。
クレーの影響が大きいと言う事があります。小さなところから始めるというのは、重要な事だと思っています。
クレーを悪く言う人も多くいますが、クレーは偉大なアーティストです。
聖書にも、小さき門より入れとあります。
小さな作品は重要なものなのです。
小さな作品、中くらい作品、大きな建築美術と、すべての領域を作りたいと言う気持ちが私には、あるのです。でないと、美術と言う相互性が理解できないと考えます。
皇居美術館空想のような、概念的で象徴界の設計の様な作品も作れば、小さな名刺大のドローイングも描くと言う立場をとります。そうしないと、美術の全領域が追求できないと考えます。
しかし多くの作家は、自分の作品だけを愛して、美術そのものや、芸術そのものを追求しようとしません。
コレクター
コレクターも同様であって、大コレクターや美術館のような上流が重要ではありますが、しかし下流の小さなコレクターも重要だと、理念的には思います。
それはリアリズムというよりは、思想的な理念の問題であって、実際には小さな作品を作るのは手間も大変だし、社会的には不愉快な思いもたくさんします。小さな作品や、版画を作ると売春婦のような扱いを受けます。
小さな作品だけを買うコレクターは、今度は逆に、自分には買えない大きな作品を見ようとはしません。美術作品が好きなのではなくて、買う事が好きなのです。
コレクターはコレクターで、自分の欲望だけを見つめていて、実は作家研究もしないし、極端に言えば作品も見ようとはしないのです。コレクターのほとんどは、コレクションという事自身を勉強しません。すぐれたコレクターについて、どのようにしてすぐれたコレクションを集めたのか、という、そういう他者のコレクターについて、勉強をしようとしません。ただ盲目的に買いたいだけと言うコレクターが多くいるのです。。
つまり人間の多くは自分のことしか考えていなくて、美術や芸術すらが、自分の《気晴らし》のために過ぎないのです。《気晴らし》への欲求は、人間の深い欲望なのです。こうした矮小な人間の欲望と向き合って、この矮小さをコピーして、自分の欲望であるかのように制作する中に、《真性の芸術》を滑り込ませて行くと言う詐術が重要なのです。芸術というのは、《社会芸術=エクスプロイテーション美術》を模倣した上での詐術なのです。
建築美術をコミッションワークでやる場合も同様で、日本の美術界は、こうしたものは見ない事にしているかのように無視します。つまり小さな美術を無視すると同時に、大きな建築美術をも無視するのです。
日本の現代美術界というのは、奇妙な欺瞞の空間の中に閉塞しているのであって、それはそれで仕方がない事です。美術や芸術というものが、奇妙な思い込みの迷信の中に形成されていて、一種の知的障害のような症状を呈しています。
しかしこうした構造を、一挙に変える事は出来ません。団体展は、どうしようもありません。現在の旧・現代美術も、まとめて古くなり、団体展のようになってしまいました。若い現代アートのことは、私自身には良く分かりませんが、しかしある種の新しい団体展のように見えます。
この外へと出たいという欲望!
電車の中で
ただ普遍的な美術を追究しようとすれば、私は小さな美術も、中くらいの美術も、大きな美術も追究をして行かないと、作家として大きく成長できないと思っています。
そんな、大それた事を言う必要も無い事ですが、自分としては電車の中で描けるこうした小さなドローイングも、面白いのです。電車の中で、私は退屈ですから、制作をしたいのです。
中くらいのものや、大きな作品も作りますが、小さなドローイングや水彩も、小さな隙間の時間の中で作って行きたいのです。
こうした小さくて安い作品を、軽蔑する人は軽蔑すれば良いのです。私は何人もの人に軽蔑されて生きて来ていますが、私は鈍いから、屁とも思わないのです。鈍さというのも才能の内であります。
私の方は、小さくても真剣に芸術作品として制作するだけです。
欲望の奇怪さ/美術家とコレクター [生きる方法]

「施主」のように具体的に顔が見えない分難しいですね。
自分の中もつ観客がどのような存在なのか、如何に多くの眼差しを取り込めるかが重要なようですね。
by 丈 (2009-12-08 14:23)





美術作家の欲望のちがい(加筆1) [生きる方法]
人はそれぞれ、違った欲望を持って生きています。 そのことを知っている、当たり前のつもりが、 実際は、私はそのことを良く知らなかったという事を、 知ったのが、今回の日本ラカン協会の大会でした。 経験としては知っていても、 理論として把握できるかどうかで、違うのですね。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 朝5時半起きで、日本ラカン協会第9回大会に行って来ました。 9時からの研究発表を聞くためです。 ですので8時15分に会場について、開催の準備に参加しました。 一応、日本ラカン協会の幹事ですので、そういう準備の作業も 参加するのです。 日本ラカン協会第9回大会プログラム日時:2009年12月6日(日) 09:00~17:30 場所:専 修大学神田校舎7号館731教室(3F) (〒101-8425 東京都千代田区神田神保 町3-8) 交通: 営団地下鉄・神保町駅 徒歩3分 大会参加費 : 無料 私自身は、学問というものが好きです。 何が好き家と言えば、蓄積がきくからです。 知識や理論が蓄積して成熟してく事が可能なのです。 こういう学会発表も好きです。 若い研究者の発表に、学ぶものがあるのです。 この日の3つの研究発表は、大変に刺激的なものでした。 今日、一番学んだ事は、欲望の問題です。 人によって、欲望が違うのですが、 欲望そのものの消失の問題がまず、最初に私の興味を引きました。 あるいは何を作ったら良いか分からなくなる人を、 何人も見て来ているのですが、 こういう人の問題です。 1. 研究発表 09:00~11:45 (発表時間30分、質疑応答15分) 09:00-09:45 石崎 恵子 (お茶の水女子大学大学院博士課程) 「精神分析における『絶対的差異』 ――西田哲学との対比において」 司会: 伊吹 克己(専修大学) 概要: ラカンが精神分析の立場として提示した「絶対的差異を得る欲望」とは、 「S /対象a」及び「la Loi/les lois」における差異を求めるもので あるが、この差異を別の角度から「一般/個物」「道徳/宗教」の相違 として捉えていたと考えられる西田幾多郎の説と の対比において、 その分岐点から浮き彫りとなる差異の諸相と、日本におけるその 可能性を探りたい。 石崎恵子さんの発表は、《絶対的な差異》の問題です。 ラカンと西田幾多郎を比較しながらの発表は、 なかなかむずかしいものでした。 《絶対的な差異》とは何か? 彦坂尚嘉的に、分かりやすく要約すれば、それは押井守の 甲殻機動隊に出てくるゴーストの問題です。 人間が自閉するのではなく、自開して行った場合には、 個人は、もはや外部に開かれた情報の交差点であって、 情報網の中にとけ込んで行ってしまいます。 この時に、自分が自分である最小限の差異が、 《絶対的な差異》であり、ゴーストなのです。 彦坂尚嘉の芸術論の根拠は、このゴーストに依拠する 表現を芸術としている事です 。 学問が蓄積が出来ると書きましたが、 ゴーストと言う私性は、蓄積がきくのです。 公共性のあるデザインは消費されるのですが、 私性を帯びた芸術作品は、 時間を超えて人に感銘を与える蓄積性があるのです。 このことを今日の多くの人が忘れているのです。 10:00-10:45 太田 和彦 (東京農工大学農学府) 概要:詩人・宮澤賢治(1987-1936)の心象スケッチ作品には、 ほぼ必ずそれぞれの作成 年月日が記されている。 しかし第三集に収録されている作品1020「野の師父」には、 例外的に草稿を含めてその作成年月日が記されていない――。 これを きっかけとして、賢治の詩作・推敲における「師」の機能を、 ラカンが『セミネールⅡ:自我』で行った「教える者への問い」を主に 参照しつつ考察する。そし て、〈賢治はなぜ推敲し続けたのか?〉 という前回ワークショップからの疑問に、別の視角からの回答を試みる。 太田 和彦さんの発表は、宮沢賢治自身が行っていた 心理学的な探究を問題にし、 興味深いものでした。 宮沢賢次は想像以上に面白い重要な文学者 であったのです。 【続きは下記をクリックして下さい】 |
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格 [生きる方法]
浜さん
コメントありがとうございます。
基本的な誤解があります。
私は《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格、さらにはサントームのある4層の人格を良しとする主張をしているのであって、《想像界》の人格の存在を否定していません。
それは今までのブログを読んでいただければ、書いてある事です。
山根さんも、浜さんも、この総合性の問題を誤解なさっています。
山根さんの論点そのものに、そうした矮小さがあるのです。
by ヒコ (2009-11-11 03:13)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
何を言っても無駄です。
by 桑山 (2009-10-30 12:24)
私「山根秀太郎」も「桑山」もこのブログから去ります。名前を変えて再度出ることもしません。
というのも、どうやら、どうやっても私はここでは「悪霊」であり続けたようにです。私としては建設的な議論をして場を活性化させたいと思っていたのですが、結果的にはこうして多大なご迷惑をおかけしました。
このブログは、読み物として面白いものであると思います。
これからも頑張ってください。それでは。
自己欺瞞の問題/山根秀太郎さんへ [生きる方法]
シュティルナーは、その著書「唯一者とその所有」の冒頭で、










あべこべなのです。
「想像界」の格付けにしてもそうで「私の意見を排除するから想像界」というあべこべのプロセスで格付けが行われているように見えるのはこのブログにおいては非常に大きな問題であるように思われます。

ロングテール/少数者のネットワーク [生きる方法]

よく知られているように、ロングテールは2種類の人々にとって良いニュースである。一つは、少数の幸運な集積業者、たとえばアマゾンやネットフリックス。もう一つは60億人の消費者。これら2種類のうち、消費者のほうが無限のニッチに隠れている財産からより多くの恩恵を受けていると思う。
しかし、創作者にとってみればロングテールが功罪相半ばするものであることは疑う余地がない。この方程式においては一人一人の芸術家、演出家、発明家、制作者が考慮されていない。ロングテールは創作者の売上を大きく増やすのではなく、激しい競争と価格低下への果てしない圧力を加えてくる。芸術家としては、他の芸術家たちの作品を集積する大規模業者にでもならない限り、微々たる売上という低迷から抜け出す道筋をロングテールが提供してくれることはない。
爆発的大ヒットをねらう以外に、芸術家はどうすればロングテールから脱却できるのだろうか?
一つの解決策は「千人の忠実なファン」を見つけ出すことである。そういう呼び方はしなくてもこのやり方に気づいた芸術家たちもいるが、私は定式化してみる価値はあると思う。「千人の忠実なファン」の要点を簡単に言えば次のとおり。
芸術家、音楽家、写真家、工芸家、俳優、アニメ作家、デザイナー、ビデオ作家、著述家などのような創作者、すなわち芸術作品を創作する人は誰でも、生計を立てるためには「千人の忠実なファン」を集めれば良い。
「忠実なファン」とは、あなたが創作したものを何でもかんでも購入する人のことである。あなたが歌うのを見るために200マイルの道のりを自動車で走ってくる。あなたの作品の「超豪華 再発売 高画質版ボックスセット」を買ってくれる。すでにその低画質版を持っているのに。あなたの名前をグーグルアラートにセットしている。あなたの絶版作品が出てくるイーベイのページをブックマークしている。あなたのコンサートの初日に来る。あなたにサインを求める。Tシャツやマグや帽子を買う。次の作品が発売されるのを待ちきれない。そういう人たちが忠実なファンである。

売上を増やしてロングテールの水平な直線から脱出するためには、「忠実なファン」と直接つながる必要がある。別の言い方をすれば、千人の「平凡なファン」を千人の「忠実なファン」に転向させることである。
控えめに見積もって、「忠実なファン」はあなたの活動を支援するために、賃金1日分を1年間に使うものとする。この「賃金1日分」は平均での話である。「最も忠実なファン」は当然それより多くのお金を使うだろう。ここでは、一人の「忠実なファン」は1年あたり賃金1日分として100ドル使うことにしよう。千人のファンがいれば、その合計は1年あたり10万ドル。そこから多少の経費を差し引いて、たいていの人の生活費くらいにはなる。
千人というのはありうる数字である。千まで数えることはできる。1日一人ずつファンを増やしていけば、3年で達成できる。「忠実なファン」の仕組みは実現可能だ。「忠実なファン」に喜んでもらうことは、楽しくて励みになる。そのおかげで芸術家は本物のままでいられる。自分の作品の独自性に集中でき、「忠実なファン」はそこに価値を認める。
重要な課題は、「千人の忠実なファン」と直接につながっているということである。彼らは直接あなたに支援を与える。たぶん彼らはあなたのハウスコンサートに来るだろう。あるいは、あなたのウェブサイトでDVDを買う。ピクトピアであなたの写真を注文する。直接の支援であれば支援の全量をあなたが確保できる。さらに、直接のフィードバックや愛情も有益である。
つながるための技術と、小規模生産のための技術がこの循環を可能にする。ブログとRSSフィードでニュースや出演予定、新しい作品などを流す。ウェブサイトには過去の作品のギャラリー、経歴情報のアーカイブ、持ち物のカタログなどを置く。いろいろなデジタル関連業者、たとえばディスクメーカー(CD/DVD作成)、ブラーブ(自費出版)、ラピッドプロトタイプ業者、マイスペース(コミュニティサイト)、フェースブック(SNS)などが、少量のものを早く安く簡単に生産して宣伝するために協力してくれる。何か新しい物を制作するために、百万人のファンがついている必要はない。わずか千人で十分なのだ。
あなたの生計を支える熱狂的なファンの小さな輪のまわりに、同心円状に「平凡なファン」の輪がある。この人たちは何でも買うというわけではない。じかに接することを求めない。でもあなたが創作するものを多く買ってくれる。「忠実なファン」を育てるために用意したプロセスは「平凡なファン」にも使える。新しい「忠実なファン」を獲得しながら、同時により多くの「平凡なファン」も増加させることができる。これを続けていけば、ついには何百万人のファンができて大ヒットするだろう。百万人のファンを持つことに関心がないような創作者を私は知らない。
しかしこの戦略のポイントは、生き延びるためにはヒット作品は必要ないということだ。ロングテールから脱出するためには、ベストセラーというショートヘッドを目指さなくても良い。テールからそう遠くない中間部分に、少なくとも生計を立てられる場所がある。途中にある安息の地が「千人の忠実なファン」である。芸術家がベストセラーのかわりに目指すべき目標である。
デジタルに媒介されたこの世界でスタートする若い芸術家には、スターを目指す以外の道があるはずだ。ロングテールを作ったまさにその技術で可能となった道である。プラチナ・ヒットや爆発的ベストセラーやセレブの地位などという、狭くて見込みのない頂上に到達しようとするかわりに、「千人の忠実なファン」との直接のつながりを目指す。それははるかに健全な目標である。巨万の富ではなく生計を得るのだ。一時的流行やブームではなく、「忠実なファン」があなたを取り巻いている。実際にそこに到達する可能性はずっと高い。
ここで警告をいくつか。この方策「千人の忠実なファン」は、一人の場合、すなわちソロ・アーチストのために考案したものである。デュエットやカルテット、あるいは映画のクルーの場合はどうか?明らかにより多くのファンが必要だ。増加すべきファンの数は、創作グループの人数の増加に正比例する。グループの規模が33%大きくなれば、33%だけ多くのファンが必要になる。この線形的増加は、デジタル世界でたいていのものが指数関数的に膨張するのと対照的である。この「忠実なファン」のネットワークは、標準的なネットワーク効果の法則に従って、ファンの数の二乗に比例して増加すると言っても驚くにはあたらない。「忠実なファン」は互いに結びつきがあるので、あなたの作品への平均的支出額を容易に増加させる。創作に関わる人数が多ければ、必要とされる「忠実なファン」も多くなるが、その増加は爆発的ではなく緩やかで比例的に増加する。
もっと重要な注意。芸術家は必ずしもファンを育成する素質や意欲を持っているわけではない。多くの音楽家は音楽を演奏したいだけであり、写真家は撮影したいだけ、画家は絵を描きたいだけである。彼らの気質としては、ファンの相手、とくに「忠実なファン」の相手をしたいとは思っていない。このような創作者には、仲介者、マネージャー、付き人、代理人、あるいは観客係というような、ファンを取り仕切る人が必要である。そうであっても同様に「千人の忠実なファン」という中庸の目標を目指すことはできる。彼らは二人組で仕事をしているだけのことだ。
三つ目の特徴。直接のファンが最も望ましい。間接的に生活費を稼ごうとすれば、必要な「忠実なファン」の数は急速に増大するが、無限には増えない。ブログを例として考えてみよう。ブロガーに対するファンの支援は広告のクリックを通じて行われる。(たまにチップ・ジャーによる場合もあるが。)ブロガーが生活費を稼ぐためにはより多くのファンが必要になる。このため到達目標はロングテール曲線の左へ向かって動くが、それでも爆発的ヒットの領域にはまったく届かない。同じことが本の出版にも言える。作品による収益の大部分を取ってしまう会社が関与していると、支援する「忠実なファン」は何倍も多くの人数が必要になる。自分のファンと直接に接触することを開拓すればするほど、その必要な人数は少なくなる。
最後に、実際の数字は媒体ごとに異なるかもしれない。たとえば、画家には500人の「忠実なファン」、ビデオ作家には5千人の「忠実なファン」とかいう具合に。さらに、国によっても違うはずだ。実際の数字が問題なのではない。それはやってみなければ決められない。そのモードにはいってみれば、実際の数字が明らかになるだろう。それがあなたにとって必要な「忠実なファン」の数だ。私の方策は数字の桁が違っているかもしれないが、それでも百万人よりはずっと少ないだろう。
「忠実なファン」の人数について参考文献を調べてみた。Suck.com の共同創設者カール・ステッドマンにはマイクロセレブについての理論がある。その計算では、マイクロセレブとは1500人に有名な人である。1500人があなたに夢中ということだ。ダニー・オブライエン (Danny O'Brien) は次のように述べている。「英国のすべての町にひとりずつ、あなたのおバカなオンラインコミックが好きな人がいるとする。あなたが1年中ビールを飲むためには(またはTシャツを販売するのには)それで十分である。」
このマイクロセレブに対する支援をマイクロ後援とか分散後援と言う人もいる。
1999年にジョン・ケルシー(John Kelsey) とブルース・シュナイアー(Bruce Schneier) は「ファースト・マンデー」 (First Monday) というオンラインジャーナルでこのモデルを発表した。それは大道芸人方式 (Street Performer Protocol) というものである。
大道芸人の論理を使うと、本が出版される前に著者は直接読者に協力を求める。もしかすると本を書く前ということもあり得る。著者は出版社を通さずに、次のような声明を発表する。「10万ドルの寄付が集まったら、このシリーズの次の小説を公開します。」
読者は著者のウェブサイトに行って、寄付金がいくら集まったかを知ることができる。小説を出版させるために寄付することができる。注意すべきことは、著者は次の章を出版する費用を誰が払うのか気にしなくて良い。また、お金を払わずにその本を読む人がどれくらいいるかも気にしなくて良い。著者は10万ドルという容器が満杯になったかどうかだけを気にすれば良い。それが満たされたら、次の本を出版する。この場合には「出版」というのは単に「提供」するというだけのことであり、「製本して書店で販売する」という意味ではない。本は無料で誰にでも提供される。寄付金を払った人にも、払わなかった人にも。
2004年には、ローレンス・ワット=エバンスという作家がこのモデルを使って最新作の小説を出版している。彼は「忠実なファン」にみんなで合わせて毎月100ドル払ってくれるように頼んだ。100ドルを手に入れると、小説の次の章を投稿した。本全体は「忠実なファン」に対してオンラインで公開して、その後、すべてのファンに向けて紙で出版した。彼は今この方式の第二作を書いている。彼の生活は200人程度の「忠実なファン」に支えられている。それができるのは、彼が従来のやり方でも出版しているからだ。何千人もの「平凡なファン」の支援によって出版社から前払金を受け取っている。その他、ファンからの直接の支援を利用している作家としては、ダイアン・デュエイン、シャロン・リーとスティーブ・ミラー 、ドン・セイカーズなどがいる。ゲームデザイナーのグレッグ・ストルジは同様の「忠実なファン」モデルを採用して前払資金による二つのゲームを作っている。ここでは「忠実なファン」50人が開発資金を寄付した。
「忠実なファン」モデルの特質は、ファンがその人数に比べて大きな力をもって、芸術家をロングテールの末端から脱却させることが可能になるということである。それには3通りの方法がある。各人がより多く購入すること、直接お金を払うことによって売上高のうち創作者の取り分をもっと多くすること、支援のための新しいモデルを実現させること、の三つである。
支援の新しいモデルにはマイクロ後援も含まれる。別のモデルとしては起業費用の前払調達がある。デジタル技術のおかげでファンによる支援がいろいろな形で可能になっている。ファンダブル (Fundable) はウェブをベースとする企業で、誰でもプロジェクトのための一定額の資金を調達できる場を提供し、さらに後援者に対してもプロジェクトが発足することを保証する。全額が集まるまではファンダブルが資金を保留する。もし最低額に達しなければ、そのお金を返却する。

ファンダブルのサイトから一例を示す。
アメリアという20歳のクラシックソプラノ歌手は、録音スタジオに入る前に自分の最初のCDを事前販売した。「事前注文で400ドル得られたら、(スタジオ費用の)残りが払えるようになります。」と寄付予定者に説明した。ファンダブルのオール・オア・ナッシングモデルによって、彼女が目的を達成できなかったとしても、顧客は誰も損をしないことが保証されている。アメリアのアルバムは940ドルを超える売上があった。
千ドルあっても飢餓状態の芸術家を生き延びさせることはできないだろう。しかし本気の心遣いがあれば、熱心な芸術家が「忠実なファン」とともに成長することは可能だ。カナダの音楽家ジル・ソビュール は長年にわたるツアーとレコーディングを通じてかなりの規模の支持者を集めており、「忠実なファン」の力を得て成功している。最近、彼女は次のアルバムのレコーディング費用7万5千ドルをファンにお願いして調達することにした。今のところ5万ドル近くを集めている。寄付という形で直接に支援することにより、ファンはその芸術家に対する親近感を増す。AP通信(Associated Press)は次のように伝えている。
寄付者は資金に対する担保のレベルを選ぶことができる。10ドルの「磨いていない宝石」、すなわち彼女のレコードが完成したらそれを無料でデジタル・ダウンロードできるというものから、1万ドルの「兵器級プルトニウム・レベル」まで。これは彼女が次のことを約束している。「私のCDに歌いに来てね。あなたが歌えなくても大丈夫。こちらでなんとかするから。」5千ドルの寄付に対しては、寄付者の家でコンサートをするとソビュールは言っている。低いレベルはもう少し一般的なもので、寄付者は特別版のCDをもらえるとか、寄付者がそのCDの「ジュニア・エグゼクティブ・プロデューサー」としてライナーノートやTシャツに記載されるといったものである。
「忠実なファン」によって生計を立てることに対して、通常、他の選択肢は貧困である。つい先頃の1995年の調査によると、芸術家であることの一般に認められた価格は高い。だが社会学者ルース・タウスが英国の芸術家を調査したところ、彼らの収入の平均は貧困最低限レベルを下回るという結果を得た。
創作者には、貧困でもなくスターでもない中間の居場所があると私は言いたい。それは成層圏レベルのベストセラーよりも低いけれども、ロングテールの暗がりよりは高いところだ。実際に本当の数字はわからないが、熱心な芸術家であれば千人の「忠実なファン」を開拓することができると思う。ファンからの直接の支援と新しい技術を利用して、正当な生活ができるはずである。そのような道を進むと決めた人がいたら、私に連絡をいただけるとありがたい。













山根さんの論点は正しいと思います。諦念を抱かれるのは、彦坂さんを含め想像界の人間(のコメント)が大多数だからだと思います。お気を落とさないでください。
by 浜 (2009-11-10 15:04)