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狂乱の世界 [生きる方法]

 

川上直哉 (2010-03-13 06:20)さんのコメントの後半への
お返事です。
 
第三の点は、第二の点の展開です。

1950年代以降を今と弾き比べる時代感覚の錯誤が、指摘されました。
これは、重要な指摘だと思います。

私も、1930年代こそ、今と比べるべき時代だというご指摘に、
賛成します。
しかし、それだからこそ、
1950年代に目を向けている、つもりなのです。

日本の1930年代は、いつ、終わったか。
それは、各方面でずれがあると思いますが、
少なくとも日本のキリスト教界(新教に限る)では、
1950年代に、やっと、おわります。

つまり、1930年の問題としておっしゃっているのは、
日本のキリスト教が、戦争協力したという問題だろうと
思うのです。

日本のキリスト教組織は、
少数の例外の人びと殉教者を除いて
大政翼賛会に賛同して戦争協力の道を選んだのです。

それは、そもそもは日本のキリスト教と、
国家神道としての近代天皇制の矛盾に根があったのだろうと、
思います。

日本を神国としてとらえる考え方は、
実は仏教からの圧力と、元寇という外圧の中で生じたと考えられます。

神道そのものをアニミズムと考える考え方が一般的ですが、
しかしもしもアニミズムならばアフリカの黒人彫刻のような
偶像崇拝物が、神道文化としてあって良いと思うのですが、
寡聞にしてそういうものをあまり知りません。

お隣の韓国に行くと、アフリカかと見間違えるような
原始的な彫刻や仮面が多くあります。
しかし私が見て来た限り日本の神社文化の中には、
原始彫刻はありません。

ですので私は神道をアニミズムではないものと考えています。

伊勢神道の外宮の度会神道から、本地垂迹説に対する反撃が起きます。

本地垂迹説というのは、仏教と神道を統合しようとする時に、
仏教を上に置いて統一する考え方です。

これに対して度会 家行(わたらいいえゆき)は、
神が主で仏が従うと考える神本仏迹説を唱えて、
これが度会神道(わたらいしんとう)になります。

この度会 家行が北畠親房(きたばたけちかふさ)に影響を与えて、
『神皇正統記』という歴史書になります。

ここに、日本を神国とする考え方の重要な源泉があるのです。
これをどのように考えるかです。

日本の近代のキリスト教の大半は、
この天皇を神とする神国主義との対決を回避してしまいます。


近代という時代は、もともと国民国家の時代であり、
国家という枠組みが、強烈に強かった時代です。
この国民国家と天皇制が重なった大日本帝国下にあって、
日本のキリスト教は、教義的にも、矛盾を抱えてしまうのです。

もともとローマ帝国の支配の下で抵抗したキリスト教徒は、
たくさんの殉教者という犠牲者を出しながら、
彼らの屍の上に自らの信仰を築き上げて来たのです。

しかし日本のキリスト教が、殉教者の屍の上に立つ事、
つまり自らもまた、死を賭して信仰を確立しようとするものと
しては、近代日本のキリスト教は、充分ではなかったのです。

それは歴史の順番と言うか、ボタンのかける順番が、欧米とは
違っていたのであって、仕方がない事であったと、
私は思います。

1950年代になるまで、
1930年代の思想を引き継いだ1940年代の指導者が、
相変わらず、平然と、日本のキリスト教界に君臨していました。
そのことを総括するのは、1950年代になってからなのです。

私見を申し上げれば、
近代社会というのは、国民国家という形で、
《原-社会》の基盤を確立したのです。

この《原-社会》の確立以前に、宗教の基盤を確立していないと、
宗教教団としては普遍性を持ち得なくなるのです。

つまり近代社会の《原-社会》の確立以後の宗教は、
新興宗教になってしまって、
そこでは世界宗教としての普遍性を確立できない。

大本教や、創価学会、そしてオウム真理教が、
日本国家の権力を奪取しようと試みた事のうちに、
この宗教的普遍性が、近代国家の《原-社会》性と激突する構造を
持っていることが示されています。

創価学会の場合、1969年の「言論出版妨害事件」によって、
1970年には池田大作が正式に謝罪し、
教義から「王仏冥合」、「仏法民主主義」などの仏教用語を削減したことで、
創価学会の宗教性は、実は本質を失い、新興宗教のカルト性に収斂させられたと
私は思います。

つまり私の言いたいのは、
日本のキリスト教は、明治維新以前の殉教者の上に、
自らの基礎を築くべきであったと、私見では考えるという事です。

同様に、戦前の戦争協力の問題も、
協力しないで、殉教していった人びとの屍の上に、戦後の復興を成立
させるべきだったと考えます。
朝鮮では、多くのキリスト教徒が神道に対して抵抗して、
50名が殉教し、2000名が投獄され、200の教会が日本政府によって、
閉鎖されているのです。
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獄死した小山 宗祐

日本のキリスト教徒でも、ホーリネス弾圧事件や、美濃ミッション事件で
激しい弾圧を受け、投獄や殉教者を生んでいます。
私は、こうした抵抗と殉教の上に日本のキリスト教は成立するのであって、
そのことを直視しないと、宗教そのものの精神性は成立しないと思います。

キリスト教関連の思想においては、
ニヒリズムが、1950年代の大問題でした。
それは、キリスト教以外の思想圏との連動もあります。
しかし、ニヒリズム克服の運動の中で、
1930年代を総括したことは、事実です。

文学では、椎名麟三が、新教を代表しています。
そして、椎名に連携している神学者たちが、
私の研究対象となっています。

椎名麟三を私は読んでこなかったので、
この辺りは不勉強であります。
しかし私見では、この国家神道をキリスト教の、
教義の対決は、キリスト教の敗北というのが、
基本であったのではないでしょうか。

その神学者たちは、
1940年代の顛末を振り返り、
自分たちに欠けているものを見据えます。
そして、その欠損故に起こってくる待望にこそ、
1930年代を克服する足がかりを見出したのでした。

私は、これから、1930年代の暗黒が迫るのだと思います。
その今、1930年代を克服しようとした1950年代に学ぶこと。
それは、まず第一に過去の失敗に学ぶことを目指すものですが、
同時にまた、「新しい生産」の可能性を模索することにも、
つながるかもしれません。
エールをいただきましたこと、ありがとうございました。

問題は、近代の終焉以後にこそあって、
ひとつは天皇をいかに位置づけるのかという事です。

もうひとつは、情報化社会に於いては、
聖なるものは再び、別の次元で蘇ってくるという事です。

このありようを捉える事は重要ですが、
このことが日本の近代の内部にある日本のキリスト教の
不徹底さとか、国家神道とかとは、
一応、別の次元であって、
そこには、非連続性もあるように思えるという事です。

そして、もうひとつ。
原題は、虚無主義が全体を覆っている、とうのは、事実です。
しかし、私は、教師として考えます。
若者たちは、世界を見渡すことができるようになって、
皆、押し並べて、ショックを受けているようです。
それは、おっしゃる通り、
虚無主義が跋扈している現状を知って、
「こんなはずではなかった」というショックです。
私は、教養の教師ですから、
世界の実相を伝えなければならない。
その時、常に、
新しく虚無主義と向き合わされる若者たちと共に、
虚無主義と、戦わなければならない。
そうした私にとって、
1950年代に、学ぶことが多くあると思っているのです。

私の考えでは、すでにニヒリズムは終わっているのであって、
たいした問題ではないと思うという事です。
現実にはニヒリズムも、近代個人主義も大勢を占めていますが、
それは古い《近代》の風化形態であって、
問題としては、解決できない事です。
それは自然淘汰が結論を生み出して行くのではないでしょうか。

川上直哉さんの立場からは、自然淘汰にゆだねるわけにはいかない
でしょうが、《近代》そのものの風化は、避けがたいのであって、
この風化そのものは、私の立場からは手の打ちようの無い問題なのです。

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文明様態選択の自由 [生きる方法]

コメントをいただいている 川上直哉さんへのお返事です。
長いので省略して、
中央部分だけにお返事します。
後半ば、別の機会に書ければと思います。

しかし、三位一体論は、もちろん、
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。

上記の論理は、私の組するところではありません。

古代ローマの「古代的資本主義」というのは、すでに農業革命後の
事象です。

彦坂尚嘉の理論的枠組みは、《全人類史》というものですので、
人類が農業を始めて以降に、世界宗教と言われるものが始まるので
あって、それは西欧と古代ローマを区分しては考えないのです。

川上さんは、古い西欧中心主義に捕われています。
一度その枠組みを外して、《全人類史》でお考えになってみる
ことも、お薦めします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「農業社会」的トマスの「三位一体論」以外のうち、
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。

ロランバルトの理論枠は古いのです。
実際にロラン・バルトは、1980年に亡くなっているので、
1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れて以降の、
《近代》の崩壊の出現を見ていないからです。

つまり私たちが今、議論している現代という状況は、
1975/1991年という《近代》の崩壊以降の爆発的な状況なのです。

哲学者でいえば、たとえば少なくともボードリヤールの
『透きとおった悪』(1990年)が素描したような状況です。

いわゆるポストモダン状況ですが、
これは今日ではボードリヤールの素描した状況は、さらに進化して
いるのです。
実際ボードリヤールは2007年に死んでしまっています。

ご指摘の「関係の類比」というのは、
情報科学が、ビットという概念で組み立てられている事の内に
組み込まれています。
ビットというのは、差異の最小限化という考えです。

この情報理論の内に「関係の類比」という構造が組み込まれてしまった
という事態は、これだけで起きたではありません。

《近代》においては重要であった「抽象」という概念の有る一面は、
情報化社会でのレイヤーとか、過防備都市(セキュリティ)等々に
組み込まれてしまって、まったく違う様相になっています。

つまり《近代》にあった重要な概念や価値枠は、
情報化社会では、部分化してしまって、違う次元に組みこまれた
のです。

それと同時に、《近代》にあった重要な関係構造が解体されて
きています。

ベルトコンベアー型生産のラインとか、終身雇用制、年功序列、
デパート、新聞社、 マスコミュニケーション。定価。
地震予知、天気予報の中期予報、
核家族、近代個人主義、国民皆兵、官僚、ジェンダ、学校、
純文学/大衆文学の区分、
純粋芸術、純粋主義、前衛美術、抽象美術、平面絵画、立体作品、
画廊/画商、評論家/批評、
本、レコード、2D映画、

産業革命が成立して、教会が支配する時代が終わって、
科学の時代になっても、バチカンが崩壊しなかったように、
情報革命が成立して、多くの《近代》の産物が終わっても、
《近代》は残って続くのは確かです。

新聞社にしても、大手のいくつかは倒産するでしょうが、
それでもいくつかは生き残って、小さくなって継続します。
それはそうなのですが、
しかし確実に、時代は変わって、《近代》は古く小さくなるのです。

それは神学が古くなったように、哲学も古くなるのです。
モダンペインティングが古くなり、近代小説は古くなるのです。

恐竜の時代が終わっても、は虫類は小型化して、
トカゲは今も生き残っているように、
宗教も小型化して生き残るし、
哲学も小型化します。
近代小説も小型化するのです。
吉本ばななは、トカゲなのです。

近代芸術も小型化して生き残るのです。
奈良美智が示しているのは、そうした近代絵画のトカゲ化なのです。

松井みどりが示した「マイクロ・ポップ」というのは、
現代美術の小型化であり、トカゲ化なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


《全人類史》で、考えると、区分は単純化します。
時代によって、その時代を支配している知的構造が変化するのです。

自然採取時代・・・・・呪術魔術   占い/まじない
農業化社会・・・・・・世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
産業化社会・・・・・・物理科学 科学思想/近代哲学
情報化社会・・・・・・情報科学 マネージメント/サントーム

この変化の比喩の根底にあるのは、
水(H2O)の比喩で、温度が上がると様態が変化するという
かたちでの説明です。

時代によって、文明の様態が固体→液体→気体→プラズマ
と変化すると、それに伴って、知的構造も変化するのです。


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自然採取時代・・・絶対零度で、空気まで凍り付いていて、動きません。
         アボリジニは、5万年同じ生活をしていたと
         言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
         
         呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
         なのです。この世界が《想像界》なのです。
         《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
         偶像崇拝が行われている知的世界です。
         これは現在も現在も継続しているのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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農業化社会・・・・・農業をするようになると、社会の温度はあがって、
          氷は氷河となって、ゆるやかに動き始めます。
          歴史が流れ始めるのです。氷河の跡は明確で、
          この時代は歴史は理解しやすいものなのです。
          ゾロスター教、ユダヤ教、キリスト教が




世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想



その中で、情報化社会というのは、
温度が上がって、水(H2O)は気体分子化し、
さらに温度が上昇してプラズマ化しているという、
今日の様態の指摘です。

ですから、こういう変化の中では、神学的な立場は古くなって
いるのです。同様の事は、画家という立場にも言えて、
画家は古い骨董的な職業になっているのです。



ただ、古い意味での哲学や神学は、今日でも存在し続けて、
意味を生産はしています。そのことを私は認めます。
カソリック神学からの現代美術論もあって、私も読んでいます。
いま本が見つからなくて題名が出て来ませんが、良いものです。
ふるくはゼードルマイヤーの『中心の喪失』という名著がありました。

しかし私見では、文明の高度化は、様態をさらに変化させているので
あって、今日の情報文明をコントロールしている理論の場は、
従来の哲学ですらないところに移ってしまっていて、
ロラン・バルトも、今日の事態を把握しているとは
言いがたいように思われます。


(中沢新一さんの最近の議論は、その一形態です。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)

以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。

私自身は、中沢新一の評価は低くて無視するだけですが、
私の言っている理論的な枠組みは、
人類の文明の様態変化なのです。

つまり

自然採取時代・・・・・・絶対零度の氷の様態で不動
農業化社会・・・・・・・氷河のように流れる氷状態
産業化社会・・・・・・・氷が溶けて水になって川のように
            流れる状態。
情報化社会・・・・・・・水が蒸発して気体分子状態になり、
            さらにプラズマ化した状態。

古典的な「三位一体論」というのは、あくまでも農業化社会での、
氷のような社会/人間関係の中で組み立てられています。

産業革命が波及して、文明の様態が、氷が溶けて水のような流体に
なると、人間関係では大家族が解体されて、
核家族という形態に分解されます。
ここで「三位一体論」は、核家族の父と母と子共という形態に
実体化したとも考えられます。

情報化社会になると、核家族も解体し、独り住まいが増えて行きます。
こういう中で、すでに述べたように、
「関係の類比」というような構造は、情報科学のビットという単位の
中に組み込まれ、そういう形で、解体されているのです。

神学をなさっているというお立場は尊重いたしますが、
そのスタンスに立つと、なかなか現状を把握するのがむずかしくなる
と思います。
同様の事は私にも言えて、画家という立場に固執すれば、現状把握は、
出来なくなるのです。
ですからブロガーという立場の方が、まだましだと考えています。

締め切りの仕事がなかなか終わらなくて、
遅れ込んでいるので、あまり整理して書けませんでした。

川上さんに、私の言っている文明の様態変化にともなう、
知の構造変化ということを、分かっていただけないとは思いますが、
今日の社会関係、分かりやすいところでは人間関係が、
全部ではないですが、かなりのところが気体化し、さらにプラズマ化
して来ているのです。
正確には絶対零度、固体、液体、気体、プラズマの5様態が、
現在の社会の中では混在しています。
この混在をマトリックスの図で説明は出来るのですが、
それは別の機会に譲ります。

つまり「三位一体」が解体されているのは、
全体的な状況ではなくて、固体性の残っているグループの中では、
むかし通りに生きているのです。
それは事実だと思います。

今日の一人の人間は、各自の欲望にしたがって、自由に、自分の
生きるべき文明様態を選択する事が、かなりの量できるのだと
思います。

《文明様態選択の自由》というのが、可能な時代になったのです。




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三位一体論の崩壊 [生きる方法]

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川上さんから、次のようなコメントをいただきました。
むずかしい事なので、簡単にですが
私の考えをお答えいたします。

(前略)

私は、キリスト教の神学者です。
神学者は、物事を三位一体論的に考える癖をもちます。
「三位一体論的」というのは、
「多」と「一」が矛盾しつつ統合される動的視点です。

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この三位一体論の統合の視点が可能であったのは、
産業革命以前の農業化社会においてなのです。

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産業革命以後は、
この三位一体の状態は、
解体されているのです。

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《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を語るラカンは、
実は体質が固体の人で、
つまり前近代的な古い体質の人であるからこそ、
3界のモデルを語ったのでした。
現実には、この3界は、
三位一体のようには、ラカンにおいても統合されていないのです。

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つまり人間の精神は、三位一体として統合されていなくて、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界に分裂しているのです。
こういう分裂の把握がラカンであると言えるのです。

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ジャック・ラカンというのは、
デカルト以来の、《近代》の個人主義的な自我の解体者なのです。



三位一体論的な視点からすると、
「3界の分離」という理解の困難さと重要さのご指摘は、
極めて大切で適切だと思われました。
その理解こそ、「迷信」と戦う足がかりになる。
本当に、そう思います。

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ただ、気になるのは、

「分離」と同時に、「統合」についても、
考えられなければならないのではないか、
ということです。

川上さんが、考え違いをなさっているのは、
この統合が可能だとする、その希求性です。
統合は不可能です。
一方的に、解体だけが進んで行くのです。

分離、分裂を認める事が重要なのです。

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つまり、「サントーム」の問題です。

サントームというのは、統合ではありません。
分離/分裂したままでの、関係の形成なのです。

私は、ラカンについては門外漢です。
内田樹さんと斎藤環さんのお仕事から、
長年、その魅力に引き寄せられつつあったのですが、
まだ、「敬して遠ざけて」いる状態です。
ですから、間違えているかもしれません。

私の理解では、サントームとは、
「3界」を「人為(art=als)で統合する第4界」です。
そう思うと、彦坂様の「格付け」も、理解できるような、
そんな気がしているからです。

統合という言葉の意味や、使い方ですが、
今日において、
昔の意味での統合や、結合や、再統合は、
あり得ないのです。

あるのは、ただバラバラに拡散して行く事です。

この状態を不可避のものとして認めつつ、
再度の新たな弱い関係性の形成が、サントームです。

私の質問は、
「3界」と「第四界であるサントーム」のつなぎ目は何か?
ということです。

この質問は、彦坂様の「ナウシカ」批判によって引き起こされたものです。

漫画版「ナウシカ」は、確かに、破綻した物語です。
でも、それは、その破綻の中に、重要な価値をもっている。
私はそう思っています。
なぜなら、その破綻においてこそ、
《想像界》の限界性が(期せずして)体現され、
その「先」への欲望を、読者に強烈に与えるものとなっている、
そう思うからです。
その意味で(のみ)、
漫画「ナウシカ」は、高く評価されると思っています。

私見を申し上げれば、
「先」というのは、
「ナウシカ」では、常に先送りされて行く構造であって、
それは万華鏡のように繰り広げ得られるものであって、
際限の無い、戯れに過ぎません。
そこには意味が無いのです。

この「ナウシカ」的な次元の世界では、
「死んでしまえばおしまい」であって、
死が意味構成をすることがないのです。


この、「ナウシカ」をめぐる評価の違いに、
彦坂様の理論への疑問が、生じました。

漫画「ナウシカ」は、
確かに「先送り」でお茶を濁しているのですが、
しかしその「先」は、
《現実界》《象徴界》となっているのではないか?

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彦坂の私見では、そのようにはなりません。
次元そのものが違うのです。

彦坂理論では、《想像界》の偶像崇拝性を
全面否定した時に、《象徴界》が出現するのです。

それがモーゼが、金の牛を壊す事であり、
十戒を確立する事なのです。

《現実界》の出現も同様であって、
《象徴界》を全面否定しないと出現しません。

《想像界》に終始する漫画という枠組の中で、
《他の次元の不在》を露骨に示すこと。
そのようにして、
却って、《他の次元への渇望》を
呼び起こすことができるのではないか?
そして、その渇望の中にこそ、
《他の次元》は生起してくるのではないか?

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このように、お考えになりたいお気持ちは分かりますが、
しかし歴史的に、そのような事態の変化が出現する事実が、
過去にあったのでしょうか?

いわゆる「改心」というのは、あると思いますが、
フロイト/ラカン的には、外部、つまり父が禁止するから、
《想像界》が否定されて、
《象徴界》が出現するのです。

彦坂理論では、それは人類史の中では、
地球の寒冷化による窮乏が必要でした。
その中で《書き言葉》の出現や、定住、農業の開始、
そして戦争の開始があって、
《想像界》が全面否定されたのでした。

そのような外部からの激変ないと、
《想像界》の否定は出現しないと思います。

個人史的には、不幸が必要です。

圧倒的な不幸に打ちのめされることによって、
《象徴界》を受け入れる心的な展開があるのであって、
普通の延長では起き得ない事ではないでしょうか。

一つの次元に閉じ込められることで、
その次元の底にある破れを示し、
そのようにして、読者の内部に《サントーム》を萌させる、
それも、芸術の価値ではないだろうか。

まず、誤解なさっているのは、
『風の谷のナウシカ』は、すばらしい《超一流》の作品ですが、
それは芸術ではなくて、デザインエンターテイメントです。
それ以上のものではないのです。

しかも《シリアス・アート》ではなくて、
あくまでも《気晴らしアート》にすぎないのです。
ここには《象徴界》も《現実界》もありません。
ましてや《サントーム》は、ひとかけらもありません。

ここで「芸術」と言っていますのは、
もちろん、近代以来のfine artに限定されません。
宗教や政治や科学を含む、「人為」全てを意識しています。
artはもともと、alsと表記された昔、
そのようなもの、だったのですから。

そういう意味では、
おっしゃるように
『風の谷のナウシカ』は、
彦坂的には《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はあります。

たとえば科学について。

ほんとうに科学を突き詰めるなら、
人は「無」の問題と向き合わなくてはならなくなる。

彦坂の私見では、科学は、《現実界》であって、
突き詰めなくても、もともと無の上に据えられているのです。


そして、「その先」を、科学の外に、求めなければならなくなる。
でも、それは自己否定をしなければ、進めない。
そのギリギリの場所で、破綻を体現してみせること、
たとえば、近年のドーキンスの仕事は、
そういう意味で、尊敬に値するものだと思っています。

ドーキンスは、凡庸な知性にすぎません。
《第6次元 自然領域》の直接性に過ぎないのです。

また、逆に、そうした自己否定に恐怖を覚えて立ちすくむ、
そんな似非専門家が、「迷信」を広めて自己を守る。
そこに、「自己愛性人格障害」的状況が生じているのだと、
本当に、そう思います。

たぶん、川上さんと私の立っている理論の次元が違うのです。
ドーキンスの「神は妄想である」という主張は、
《現実界》から見る限り正しいのですが、
それ以上では無いという事です。

たとえば、川上さんは、ご自身の顔を、
直接には見る事が、できないのです。
鏡か、写真などによって、間接的に、自分自身を把握しています。
この自己把握の厳密な適中性は、
科学によって、どのように証明できるのですか?
ラカンが言うのは、この自分自身の自己把握が、
妄想であるということです。
神が出現するのは、ここにおいてなのです。

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1950年代に似て、新しい体制が出来上がろうとしている今、
彦坂様がご指摘になっている通り、
大崩壊が始まろうとしているのだと思います。
そして、その中で、ニヒリズムが、
やはり1950年代と同様、これから、大問題になるのではないか。
(その時、「情報」という言葉が、キーワードになりそうです。
 その意味で、西垣通さんの書籍のご紹介は、有難いことでした。)

時代把握が、違うと思います。
今日起きている事は、1950年代に似てはいないのです。
普通に言われるように、1929年に似ているのです。

それとニヒリズムに対する理解が違います。
単純系の科学がニヒリズムであったのです。

今日の問題はニヒリズムではありません。
今日におけるニヒリズムは、問題にならないのです。
なぜなら二ヒリスムに満ちているのであり、
全ての人の中で80%がニヒリストとすら言えるような
全体的な状況だからです。
言い換えると、今日では全体化している故に
ニヒリズムはもはや古い過去なのです。

虚無主義と、どう向き合うか。
それを否定する強い言説を彦坂様から頂き、
それに感銘を受けつつ、考えています。
虚無主義を「取り込む」ことは、できないのだろうか。

川上さんの思考は、ワンサイクル遅れているのです。
虚無主義を否定する私の思考というのは、
徹底的な分離と分解を認めている中に出現しているのです。

聖書でも、「無」が語られることがあります。
それは、パウロが言っているのですが、
「被造物は虚無に服した、それは、新しい命への待望として・・・」
という思想です(ローマ書に出てきます)。
「無」というものは、実は、「サントーム」的な、
人為(art=als)としてのみ、意味をもつ。
そのようにしたとき、「無」は、
究極の人為として、非常に重要なものとなる
・・・とは、言えないでしょうか。

言う事はできます。
なんでも言えるからですが、
しかし「無」というのは《現実界》にしか出現しないのです。
しかし《現実界》は、現実ではないのです。

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無は存在しません [生きる方法]

ルーカスとの日々壮絶な介護の日々だったのですね。

思い出してくれる人が無くなったときに、存在は消えてゆくのですね。
私も亡くなった祖父や祖母や父のことを思い出したり、語るとき、彼らは
まだ存在しています。私が死んだとき、彼らは本当に消えてしますのだと
思っています。

心よりお悔やみ申し上げます。 
by 梅谷です (2010-02-20 20:04)  


梅谷様

お悔やみをいただき感謝します。

私自身は、私が死んで、私の記憶が消えても、
死者たちが消えるとは思っていないのです。

私の禅宗に対する評価が厳しいのは、《現実界》に於ける思考というのは、《想像界》《象徴界》の存在を無視する事に、力点が置かれ過ぎているからです。聖書には次のようにあります。


マタイによる福音書

第一章

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、

ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、

エスロンはアラムの父、 アラムはアミナダブの父、

アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

サルモンはラハブによるポアズの父、ポアズはルツによるオベデの父、

オベデはエッサイの父、 エッサイはダビデ王の父であった。

ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、
アビヤはアサの父、
 
アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、

ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキアの父、 

ヒゼキアはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、 

ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父
となった。

バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。
サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、
アビウデはエリヤキムの父、
エリヤキムはアゾルの父、 アゾルはサドクの父、
サドクはアキムの父、
アキムはエリウデの父、 エリウデはエレアザルの父、
エレアザルはマタンの父、
マタンはヤコブの父、 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。

このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、
ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、
そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

内村鑑三は、聖書研究の中で、こうした系譜学的思考を、
高く評価しています。

私も系譜学的思考をとるものです。だから私は歴史家であり、
遡行する事に情熱を持つのです。

消えるというふうには、考えないと言えます。


たとえば、国際的な美術展に参加すると、消防法が強い事に驚きます。

何故なのか?

火事で、多くの人が、無念の思いで焼け死んで行ったからです。

多くの人の犠牲の上で、消防法ができているから、

消防法は、強い法律なのです。

法とは、死者に上に立っているのです。

それは法だけではなくて、全ての存在が、
多くの無念の死の上に築かれているからです。

それは屠殺場で殺されて行く牛や豚までも含めて、
これらの死の上で、人びとは生きて行きます。

生物の弱肉強食の食物連鎖自体が、こうした死の連鎖の上に
築かれています。だから地球上には5回にわたる大絶滅があったのです。

最下層の弱者を滅ぼすと、食物連鎖の梯子の土台が崩れるので、

大崩壊が起きます。

今の日本に起きているのは、大崩壊なのです。

その崩壊を引き起こしているのは、弱者を死に追いやっている故に

起きる社会基盤の最下部の崩壊です。

全てのものの存在と死には意味があって、

クモの巣のように連鎖しています。

何らかの系譜があって、それは中国の大地の上で飛ぶ蝶の羽の動きが、
台風に増幅されて、カリホルニアを襲うタイフーンになるような連鎖
なのです。

それ故に、無は、存在しません。

複雑系の歴史観の中に、無は無いのです。

あるものは、この宇宙のすべてのものの連鎖と系譜の総体なのです。

この全ての関係を受け入れて生きる事。

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文化は学習の連鎖である(校正2) [生きる方法]

この世の中には、学習が出来ない人がいます。

普通の意味で、勉強のできない人という範囲を超えて、

学習の出来ない人が沢山います。

学習というのは、他人の思考を学び、それを吸収する事です。

ですから、学習した人の頭の中には、他人の思考が入っているのです。

 
しかし自己愛性人格障害の人は、他者排除をしますから、

学習ができません。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも言語自体が、自分の造ったものではありませんから、

他者のものを使って考えるのです。

言語の他者性というのは、重要なものです。

他人の本を読まない人は、文章を書けません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は今も読書会をしますが、

読書会に参加しないタイプの人がいるのです。

五十嵐太郎さんも、学生時代から沢山の読書会をして来ていますが、

私も大学時代から読書会をくり返して来ています。

.............................
文章を書くためには、人の文章を7倍は読まなければなりません。
私の基本は、キルケゴールと、フッサールです。

フッサールの後に、ジャック・ラカンを読んで来ています。

日本人でいうと、まず内村鑑三です。それに今道友信、谷川雁。

こうした人々の思考をくぐって、考えているのであって、

それは普遍的なものです。

ラカンでいえば、ソシュールの言語学の用語であるシニフィエ、シニフィアンという

言葉を借用しつつ、意味内容を変形しています。

こういう用語の借用と、意味のずらしや、変形は、多くの哲学者や思想家に見られる

ものです。

私の使う、現実界や、サントームという用語の使い方は、

ラカンの用語の借用ですが、内容はずいぶん違ってきていますので、

そのことは、繰り替し断りを書いてきています。

 ラカンのように、造語することも重要ではありますが、

他人の用語を使い、変形して行く事も、文化をつくる基本であり、

重要な事なのです。

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村八分に耐える事は、日本的な処世術ではない(削除書き換え) [生きる方法]

私自身は、中学生から、村八分にされて、生きて来ているのです。

私はそれに耐えて来ているのです。

いまでも、私の悪口は沢山あるのであって、

それを平然と耐えて生きて来ているのです。

・・・・・・・・・・・・・・

建築家の南さんに誘われてmixiに入りましたが、

書かなくなったのは、村的で、読者の顔が見える様になるからです。

顔が見える関係になると、その人に遠慮して、批評とか言論は成立しなくなるのです。

 
多くの人は言論が、血によって書かれて来ている事を知りません。

言論人は、殺されるのです。

殺される覚悟で、書いているのです。

美術というのは命のかかっている職業なのであって、

当事者にとっては遊びではありません。

ギャラリー山口さんはお亡くなりになりましたが、

美術家でもゴッホをはじめとして、多くのアーティストが自殺しています。

美術家というのは、命がけなのです。

・・・・・・・・・・・・・

私は日本の村の外に出続ける人間です。

ラカンの読書会に来ている人は分かっていると思いますが、

私の人間関係は、移動や、循環は早いのです。

激しく入れ替わって行きます。

固定的な村や島をつくることは、目指していません。

美術史家の富井玲子さんは「彦坂は、移動する標的だ」と書きましたが、

私自身は、脱-領土化をしつづける人間ですから、

みなさんが考えるような固定的なグループを形成してはいません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はこのブログを無償の行為で書いているのです。

ブログの記事で壊れる人間関係は、沢山あります。

それに絶えて書いているのであって、

無料のブログですから、

読者に読む事をしいているものではありません。

嫌なら、読まないで下さい。

これは日本的な処世術ではありません。

この場合、私のイメージしているテキストは、安岡 正篤の本です。

陽明学者として尊敬はしますが、

私のやっていることは、彼の考え方の外部なのです。

私の方法は日本処世術の外部を生きるところにあります。


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小さな門より入れ/軽蔑に耐え(加筆2) [生きる方法]

 美術というのがあって、駄菓子をもじったものですがグリコのおまけのような、貧しさの中にあって光る、お札のような作品ですね。 

by 丈 (2009-12-18 18:22)  

丈様

 

コメントありがとうございます。

駄美術というか、低俗美術というのは、基本と言うか、

基盤だと言えます。


制作されている美術作品の80%は最低な駄菓子的な美術なのです。


実は映画論の中には『最低映画』という用語があって、

「エクスプロイテーション映画」の翻訳です。


私自身も『低俗映画研究会』というのを、

大学時代に主催していました。


「エクスプロイテーション映画」というのは、

exploitという言葉通りに、搾取するとか、搾り取るという意味です。


つまり「馬鹿な奴らから金を搾り取るための映画」というのが、

「エクスプロイテーション映画」というもので、


何の事は無い、商業主義の娯楽映画の事で、ハリウッド映画にしろ、

昔の五社映画の80%は、こうした商業主義の映画なのです。


こういうexploitを目指すのは、何も映画だけではなくて、

美術にもたくさんあって、

「馬鹿な奴らから金を搾り取るための美術」というものは、

実は美術作品の主流でると言えるのです。


つまり商業主義の娯楽美術なのですが、

これは古くはミケランジェロ、ティツアーノや、ゴヤ、

そしてマティス、アンディ・ウォーホル、リキテンシュタイン、

さらにはジェフクーンズ、ダミアン・ハースト、村上隆も、

奈良美智も、「エクスプロイテーション美術」であるのです。

この中には、ピカソの大多数の作品も入ります。


ミケランジェロを「エクスプロイテーション美術」というと、

怒る人が、多くいるかもしれません。

しかしミケランジェロの作品は、高く評価され、

多くの影響を与えた事は事実ですが、

彦坂尚嘉の私見では、《第6次元 自然領域》の低い

しかもデザイン的エンターテイメント作品に過ぎないのです。

だからこそ、社会的に大成功したのです。


これについては別のブログを用意しているので、

詳細はそちらに譲ります。


美術史を通して、実は「エクスプロイテーション美術」は、

いつの時代にも大きな流れでありました。

しかも「低俗美術」というのは、実は、

特に1975年以降の主流の美術であると言えます。

 

高級美術、あるいは上流美術、《真性の芸術》の美術というのは、

忌避され、抹殺されて来ているのです。


今日においては、ほぼすべての美術は低俗美術であり、

駄菓子のような美術なのです。

 

そういう美術への嫌悪は正当ではありますが、

しかし単なる貴族趣味では、

敗北するしかないでありましょう。


むしろ逆であって、

「エクスプロイテーション美術」のフリをして、

そのキッチュで低俗な表情のしたに、

《真性の芸術》を滑り込ませて行く事が求められているのです。


あるいは、意識的に良い趣味性をとり、

分かりやすい現代美術の定式的なスタイルやイデオロギーを

まとう。

こうした事もまた、商業的に、

つまり「馬鹿なコレクターから金を搾り取るための美術」として

制作されている事が、事実としてあるのです。


実際に多くの人々は、

こうした商業主義が好きなのです。


もともとが、美術は、映画と同様に低俗なのです。


「エクスプロイテーション映画」が、

映画を通して訴える思想も芸術論も、世界に対する知的認識もなく、

単に《気晴らし》の娯楽映画をつくるというもので、

そこにはオリジナリティもなく、平気で人の作品をパクル。


もともと映画をそれほど好きなわけではなくて、

単に商売にすぎないという人々が蠢(うごめ)いている世界です。


同様の事は現代アートにも言えて、

多くの美術家は、美術を通して訴えるべき思想も芸術も、

世界に対する認識も無くて、

それでも社会的に了解にのるそれらしきコンセプトを、

もっともらしく書く事で了解されているだけなのです。


その表層的な理屈や定番のイデオロギーを、

また馬鹿な人々が文字通りに信じるという、

馬鹿でアホで、能天気なお祭りが繰り広げられているのです。


そこにはオリジナリティも無く、平気で他人の作品を焼き直し、

自分の作品として発表する。


何よりも、美術の作家自身が、

もともと美術はそれほど好きではなくて、

単に《自己愛》性人格障害者で、単に自己中毒者の商売に過ぎない

美術が蠢(うごめ)いているのです。


低俗美術というのは、理性脳による抑制が無いのです。

美術のイラスト性、装飾性、官能性という、

人間の脳の最深部にある原始的な本能や欲望という劣情に訴える

だけが、美術の本質だと思っているのです。


今日の社会は、ある意味で自然なのであって、

ジャングルなのですが、美術も芸術も、同様に、

ジャングルの中をサバイバルする、低俗な商売になったのです。

それが村上隆が提起した、芸術起業論なのでありました。


 

 

絵画の起源

 

人類の歴史の中には、大きな絵画=建築美術、中ぐらい(基準は20号)

の絵画=流通美術、そして小さな絵画=本の美術/版画・写真というのが、あるのです。

 

つまり絵画はひとつではなくて、起源が3つあるのです。

 

日本の中でされている絵画論は、絵画をまるでひとつの起源から生まれて来たかの様な議論の仕方で、抽象的に論じているのです。そういう抽象論は、不毛なのです。

 

それはまるで、人間もゴキブリも同じ生物だとして、生物を抽象的に論じているのと同様なのです。

 

「木」という言葉で指し示す物が、松の木から、ツツジ、榛松、さらには木の橋から、割り箸まで指し示しえるように、「絵画」という言葉が指し示す物は、実はひとつの絵画ではなくて、複数の起源から生まれた多様な絵画なのです。その中には低俗絵画も含まれているのです。

 

この絵画の複数性への認識を欠いた議論は、単なる抽象論に過ぎないのです。

 

小さな絵画

 

ドローイングというのは、基本的には小さな美術で、本の美術です。浮世絵も、版画ですので、この小さな美術に入ります。

 

小さな絵画の多くは、コレクターのところでしか見られませんが、例えば瑛九のマッチ箱代の絵画は、なかなか良いものでした。

 

モローの小さな絵画は、ヨーロッパ美術館には展示してありましたが、胸を締め付けられる様な感動があります。

 

アンドレマッソンの作品も、小さなものが多くて、MOMAでも、知っていて探さないと見損ないます。

 

小さな絵画を、日本の多くの現代美術家は、見る事もしないで、軽蔑の眼差しで、見も市内で切り捨てる態度を取りますが、それは間違いです。

 

扇面

 

狩野派は、狩野永徳のように、安土桃山城の大壁画を描いていますが、しかし実際に食べるために描いているのは扇面の絵画です。

この扇面画は、普通に見ると、良いのか悪いのか分かりにくい物です。

 

同じ事は明治の巨匠である富岡鉄斎にも言えます。1000号を超える大作を数多く描きながら、しかしコレクターに人気のあったのは、扇面なのです。しかし私でも、この扇面を見て、なかなか分かりにくいということを経験しています。


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小さな作品というのは、実はコレクター以外の普通のただ見の人間には鑑賞が難しくて、人に嫌な思いもさせます。

 

たとえば菅井汲の小さなシルクスクリーンの作品は、嫌な感じがしました。

 

ジョン チェンバレンの小さな彫刻も、嫌な感じで見た覚えがあります。

 

自分の作品も嫌な感じを持つ人がいるだろうとは思います。

 

しかし、私自身は、もともと小さな作品をつくることをし続けて来ています。

 

クレーの影響が大きいと言う事があります。小さなところから始めるというのは、重要な事だと思っています。

クレーを悪く言う人も多くいますが、クレーは偉大なアーティストです。

 

聖書にも、小さき門より入れとあります。

小さな作品は重要なものなのです。

 

小さな作品、中くらい作品、大きな建築美術と、すべての領域を作りたいと言う気持ちが私には、あるのです。でないと、美術と言う相互性が理解できないと考えます。

 

皇居美術館空想のような、概念的で象徴界の設計の様な作品も作れば、小さな名刺大のドローイングも描くと言う立場をとります。そうしないと、美術の全領域が追求できないと考えます。

 

しかし多くの作家は、自分の作品だけを愛して、美術そのものや、芸術そのものを追求しようとしません。

 

コレクター

 

コレクターも同様であって、大コレクターや美術館のような上流が重要ではありますが、しかし下流の小さなコレクターも重要だと、理念的には思います。

 

それはリアリズムというよりは、思想的な理念の問題であって、実際には小さな作品を作るのは手間も大変だし、社会的には不愉快な思いもたくさんします。小さな作品や、版画を作ると売春婦のような扱いを受けます。

 

小さな作品だけを買うコレクターは、今度は逆に、自分には買えない大きな作品を見ようとはしません。美術作品が好きなのではなくて、買う事が好きなのです。

 

コレクターはコレクターで、自分の欲望だけを見つめていて、実は作家研究もしないし、極端に言えば作品も見ようとはしないのです。コレクターのほとんどは、コレクションという事自身を勉強しません。すぐれたコレクターについて、どのようにしてすぐれたコレクションを集めたのか、という、そういう他者のコレクターについて、勉強をしようとしません。ただ盲目的に買いたいだけと言うコレクターが多くいるのです。。

 

つまり人間の多くは自分のことしか考えていなくて、美術や芸術すらが、自分の《気晴らし》のために過ぎないのです。《気晴らし》への欲求は、人間の深い欲望なのです。こうした矮小な人間の欲望と向き合って、この矮小さをコピーして、自分の欲望であるかのように制作する中に、《真性の芸術》を滑り込ませて行くと言う詐術が重要なのです。芸術というのは、《社会芸術=エクスプロイテーション美術》を模倣した上での詐術なのです。

 

建築美術をコミッションワークでやる場合も同様で、日本の美術界は、こうしたものは見ない事にしているかのように無視します。つまり小さな美術を無視すると同時に、大きな建築美術をも無視するのです。

 

日本の現代美術界というのは、奇妙な欺瞞の空間の中に閉塞しているのであって、それはそれで仕方がない事です。美術や芸術というものが、奇妙な思い込みの迷信の中に形成されていて、一種の知的障害のような症状を呈しています。

 

しかしこうした構造を、一挙に変える事は出来ません。団体展は、どうしようもありません。現在の旧・現代美術も、まとめて古くなり、団体展のようになってしまいました。若い現代アートのことは、私自身には良く分かりませんが、しかしある種の新しい団体展のように見えます。


この外へと出たいという欲望!

 

電車の中で

 

ただ普遍的な美術を追究しようとすれば、私は小さな美術も、中くらいの美術も、大きな美術も追究をして行かないと、作家として大きく成長できないと思っています。

 

そんな、大それた事を言う必要も無い事ですが、自分としては電車の中で描けるこうした小さなドローイングも、面白いのです。電車の中で、私は退屈ですから、制作をしたいのです。

 

中くらいのものや、大きな作品も作りますが、小さなドローイングや水彩も、小さな隙間の時間の中で作って行きたいのです。

 

こうした小さくて安い作品を、軽蔑する人は軽蔑すれば良いのです。私は何人もの人に軽蔑されて生きて来ていますが、私は鈍いから、屁とも思わないのです。鈍さというのも才能の内であります。

 

私の方は、小さくても真剣に芸術作品として制作するだけです。

 


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欲望の奇怪さ/美術家とコレクター [生きる方法]

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美術家の場合はクライアントコレクターという事になると思いますが、
「施主」のように具体的に顔が見えない分難しいですね。
自分の中もつ観客がどのような存在なのか、如何に多くの眼差しを取り込めるかが重要なようですね。 
by 丈 (2009-12-08 14:23)  

丈様

コレクターというのは、具体的に顔が見えるのです。
私自身、何人ものコレクターを知っているし、付き合って
来ているのです。

作品を買うコレクターの全部が顔が見えるのではないのですが、
具体的に存在していて、顔は見えるのです。

分かりやすく言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチに作品を注文
していた人々は、顔が見える人々でした。

狩野永徳に作品を注文した織田信長は、顔の見える存在で、
実際に永徳は、織田信長の肖像画を描いています。

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ゴヤやティツィアーノに肖像画を注文した人々の顔も、
彼らに見えていたのです。


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レンブラントに「夜警」の絵を注文したフランス・バニング・コック
隊長の市警団』の人々の顔も、レンブラントには見えていたのです。

120a5404.jpg


ピカソの場合にも、実はコレクターの顔が見えていたのです。
ピカソは、手紙をすべて残したのですが、
これをすべて読んだ研究書があって、
日本語に翻訳されています。
『ギャラリーゲーム』(淡交社)という本です。
これによると、ピカソは、新しいコレクターが登場すると、
その人に合わせて、作品を変えているのです。

ピカソの全レゾネというのは、私は見ていませんが、
キュービズムの時期の9年間のレゾネは買って持っています。
これを見て行くと、かなり不思議な作品展開をしているのですが、
その理由は『ギャラリーゲーム』を読むと、理解できるものになります。
コレクターとの関係で作品が変化しているのです。

メープルソープとコレクターの関係は映画になっていますが、
私はまだ見ていません。


ピクチャ 1.png

村上隆さんの発言を読んでいても、コレクターが武器商人で嫌になった
とか等々の発言があって、コレクターの顔が見えている事が分かります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

多くの美術家は、実は作品を売りたいとは思っていないのです。
このことは重要です。
なぜなら、自分の欲望によって作品を作りたいと思っているからです。
他人の欲望を排除したいと考えているのです。
つまり自分を愛しているが故に、他者を排除したいのです。
他者を排除するが故に、コレクターはいなくなるし、
コレクターの顔も見えなくなるのです。

他者の欲望を排除したいと言うナルシズムに身をゆだねると、
他者はいなくなります。
だからコレクターの顔が見えなくなるのです。

根本にあるのは、
ナルシズムという欲望の奇怪さです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人間の社会は、他人が欲望を持っている事を認める事で成立しています。

他人の欲望を満たす事で、ビジネスは成立しているのです。

この他人の欲望を切り捨てて、
他者を排除する事で、純粋な芸術を成立させようとしたのが、
モダンアートであったのです。
そのことは、豊かな成果を上げたと思います。
しかし、この方法が自明化し、飽和した時に、限界に達したのです。
そして崩壊したのです。

この崩壊は、芸術上の崩壊であっただけではなくて、
軍事上の崩壊でもあったのです。
ベトナム戦争に、なぜ、圧倒的な軍事力のあるアメリカが負けたのか?
それは他者を排除して、ベトナムの人々の欲望を理解
しなかったからです。
この無理解さは、コッポラの『地獄の黙示録』に、見事なまでに
描かれています。

他者を排除し、他者への認識を失う時に、破綻がやってくるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

田中日佐夫氏の名著に『日本美術の演出者―パトロンの系譜』というの
があります。
私はこの本を学生時代に読んで、大きな影響を受けています。






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美術作家の欲望のちがい(加筆1) [生きる方法]

 
人はそれぞれ、違った欲望を持って生きています。
そのことを知っている、当たり前のつもりが、
実際は、私はそのことを良く知らなかったという事を、
知ったのが、今回の日本ラカン協会の大会でした。

経験としては知っていても、
理論として把握できるかどうかで、違うのですね。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

朝5時半起きで、日本ラカン協会第9回大会に行って来ました。
9時からの研究発表を聞くためです。

ですので8時15分に会場について、開催の準備に参加しました。

一応、日本ラカン協会の幹事ですので、そういう準備の作業も
参加するのです。



 日本ラカン協会第9回大会プログラム

 日時:2009年12月6日(日) 09:00~17:30
 場所:専 修大学神田校舎7号館731教室(3F)
     (〒101-8425 東京都千代田区神田神保 町3-8)
 交通: 営団地下鉄・神保町駅 徒歩3分
 
大会参加費 : 無料

私自身は、学問というものが好きです。
何が好き家と言えば、蓄積がきくからです。
知識や理論が蓄積して成熟してく事が可能なのです。

こういう学会発表も好きです。

若い研究者の発表に、学ぶものがあるのです。

この日の3つの研究発表は、大変に刺激的なものでした。

今日、一番学んだ事は、欲望の問題です。

人によって、欲望が違うのですが、
欲望そのものの消失の問題がまず、最初に私の興味を引きました。

アーティストでも、制作の意欲の消える人や、
あるいは何を作ったら良いか分からなくなる人を、
何人も見て来ているのですが、
こういう人の問題です。


 
 1. 研究発表 09:00~11:45  (発表時間30分、質疑応答15分)

 09:00-09:45  石崎 恵子 (お茶の水女子大学大学院博士課程)

「精神分析における『絶対的差異』
       ――西田哲学との対比において」
司会: 伊吹 克己(専修大学)

概要:

ラカンが精神分析の立場として提示した「絶対的差異を得る欲望」とは、
S /対象a」及び「la Loi/les lois」における差異を求めるもので
あるが、この差異を別の角度から「一般/個物」「道徳/宗教」の相違
として捉えていたと考えられる西田幾多郎の説と の対比において、
その分岐点から浮き彫りとなる差異の諸相と、日本におけるその
可能性を探りたい。


石崎恵子さんの発表は、《絶対的な差異》の問題です。

ラカンと西田幾多郎を比較しながらの発表は、
なかなかむずかしいものでした。

《絶対的な差異》とは何か?
彦坂尚嘉的に、分かりやすく要約すれば、それは押井守の
甲殻機動隊に出てくるゴーストの問題です。

人間が自閉するのではなく、自開して行った場合には、
個人は、もはや外部に開かれた情報の交差点であって、
情報網の中にとけ込んで行ってしまいます。

この時に、自分が自分である最小限の差異が、
《絶対的な差異》であり、ゴーストなのです。

彦坂尚嘉の芸術論の根拠は、このゴーストに依拠する
表現を芸術としている事です 

学問が蓄積が出来ると書きましたが、
ゴーストと言う私性は、蓄積がきくのです。
公共性のあるデザインは消費されるのですが、
私性を帯びた芸術作品は、
時間を超えて人に感銘を与える蓄積性があるのです。
このことを今日の多くの人が忘れているのです。


 10:00-10:45  太田 和彦 (東京農工大学農学府)
「宮澤賢治と『師』の機能――『セミネールⅡ:自我』を中心に――」
司会: 福田 肇(フランス・レンヌ第一大学哲学科博士課程)

概要:詩人・宮澤賢治(1987-1936)の心象スケッチ作品には、
ほぼ必ずそれぞれの作成 年月日が記されている。
しかし第三集に収録されている作品1020「野の師父」には、
例外的に草稿を含めてその作成年月日が記されていない――。
これを きっかけとして、賢治の詩作・推敲における「師」の機能を、
ラカンが『セミネールⅡ:自我』で行った「教える者への問い」を主に
参照しつつ考察する。そし て、〈賢治はなぜ推敲し続けたのか?〉
という前回ワークショップからの疑問に、別の視角からの回答を試みる。

太田 和彦さんの発表は、宮沢賢治自身が行っていた
心理学的な探究を問題にし、
興味深いものでした。
宮沢賢次は想像以上に面白い重要な文学者
であったのです。
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《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格 [生きる方法]

山根秀太郎というハンドルネームの人物は、このブログのコメント欄から退場なさったので、これ以上の議論は終わりたいのですが、しかし、以下のようなコメントがあったので、誤解を解くために書いておきます。

山根さんの論点は正しいと思います。諦念を抱かれるのは、彦坂さんを含め想像界の人間(のコメント)が大多数だからだと思います。お気を落とさないでください。


by 浜 (2009-11-10 15:04)  

ヒコ

 

浜さん
コメントありがとうございます。
基本的な誤解があります。
私は《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格、さらにはサントームのある4層の人格を良しとする主張をしているのであって、《想像界》の人格の存在を否定していません。
それは今までのブログを読んでいただければ、書いてある事です。
山根さんも、浜さんも、この総合性の問題を誤解なさっています。
山根さんの論点そのものに、そうした矮小さがあるのです。 
by ヒコ (2009-11-11 03:13)  


 

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山根さんも浜さんも、《想像界》の人格を悪と考えられているのですが、それは基本的な誤解です。

まず、元々はラカンの考えた人間の人格は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつものなのです。たぶんラカンを読んでおられなくて、この基本の認識をを山根さんは欠いています。

彦坂尚嘉の理論は、このラカンの用語を借用して、《言語判定法》という方法の中で展開しているので、ラカンの使用とはずれる側面が発生します。

その辺が、山根さんの間違いを生み出しているので。

人間の人格は、基本としては《想像界》《象徴界》《現実界》の3界と、さらには晩年のラカン理論に登場する《サントーム》という環を持っているのです。彦坂尚嘉の理想としての人格も、このラカンの枠組みは全面的に肯定しているのであって、したがって彦坂尚嘉の人格の中にも、《想像界》の人格は存在しているのです。

ところが山根さんと浜さんは、そのことを否定的に考えて、さらにはそのことを持って、彦坂尚嘉の人格は《想像界》だけであると、単純化しているのです。

浜さんがいうように、山根さんの議論は詳細を究めていて、その限りでは論点は正しく見えるのですが、それは正しく見える限りの狭い範囲の論理なのです。

山根さんが、桑山名義で、最初に書いた長文の最後を思い出して下さい。

ただ、そうしている間にこの場はみるみる自己破産へ向かうでしょう。
何を言っても無駄です。

by 桑山 (2009-10-30 12:24)  

これが最初の文章の結末ですよ  !
詳細な理論展開をする理性的な人物が、最初に登場した文章でこのようにかくことは、私に対しても、このブログを読んでくれている人々にも、社会的な基本的な礼儀を欠いているのです。
その結果が、最後の山根名義での次の様な文章につながったのです。


自分のコメントを再度読み直しました。
私「山根秀太郎」も「桑山」もこのブログから去ります。名前を変えて再度出ることもしません。
というのも、どうやら、どうやっても私はここでは「悪霊」であり続けたようにです。私としては建設的な議論をして場を活性化させたいと思っていたのですが、結果的にはこうして多大なご迷惑をおかけしました。

このブログは、読み物として面白いものであると思います。
これからも頑張ってください。それでは。 
by 山根秀太郎 (2009-11-09 02:56)  

何故に山根秀太郎氏は、退場をなさったのか?
それは最初の「この場はみるみる自己破産へ向かうでしょう。何を言っても無駄です」という文章が、指し示しているものなのです。この予言が、自分自身に帰って来ているのです。私やコメントを書いている人を、最初から「何を言っても無駄です」と否定してしまえば、それは極めて失礼で、社会性を欠いた暴言なのです。こうした暴言を背景として、一見精緻に見える論理を展開しても、その論理の外縁は「何を言っても無駄です」ということ、さらには「この場はみるみる自己破産へ向かうでしょう」という呪いにおおわれていたのです。

桑山/山根秀太郎氏が、一生懸命に、何度も書いて下さった事には感謝しますが、かれが中学校時代から、このような詳細な論争を展開しながら、ある空しさに至るのは、理論的な整合性を生み出すことのできる狭い範囲での論争を得意としているからです。そしてその外縁には何を言っても無駄です」という、全面否定が、最初からまとわりついているのです。

戦争で言えば、局地戦を戦っておられるのです。
大局を欠いている。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格と言う視点を欠いて、《想像界》という人格を理解して、その限りでの整合的な理論を組み立てているのです。

退場なさった方に、これ以上批判する事は、無駄な事だし、山根秀太郎というハンドルネームの方に失礼でしょう。かれが一生懸命に書てくれた事に対しては、感謝していますし、敬意を評したいと思います。

最後に私見を述べれば、複雑系の理論では、この現実世界を貫徹している基本は、冪乗則だけであって、それ以外は、実は予想不可能なのです。

ここでも理論をずらしていると言う批判を受けるかもしれませんが、局地的な整合性は、実は無意味なのです。彦坂尚嘉の理論的な特徴は、全人類の歴史とか、全色彩領域とか、そのような《全》という視野をもって考えるという方法です。

これに対しても中原佑介氏などから、厳しい批判をいただいていますが、しかし、ならば中原氏が、いかなる理論的な成果を上げたかと言えば、それも空しいものなのです。

あらゆる理論は、実は不完全であり、詐術です。

理論的整合性は、その枠組みの外縁を見なければ、無意味なのです。

彦坂尚嘉自身は、矛盾に満ち、錯綜し、欺瞞と誠実の交合物なのです。その事自体が方法である事は、このブログでも示しているつもりです。

局地的に、理論的整合性を築く方法そのものが、間違なのです。

なぜなら、その理論の外部が忘れられているから、一見したところの整合性に至っているからです。世界は理論では無いのです。だからこそ、理論が必要であるのです。この矛盾が分からないと、屁理屈になってしまうのです。


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