この作品は、フロアーイベントという、1969年の私のデビュー作品から、断続的に作られて来ている作品の新展開なのですが、当初のプランは竹を使う予定でした。こういう作品の場合、何よりも重要なのは金銭の問題であって、限られた予算で、どのように自分のやりたい事をするのか? ということです。竹の使用を考えたのも、竹が費用的に安いので、それが重要な要素でした。ですから当初、この安い竹を探したのですが、その中で間伐材に到達したのです。
津南という地域で、間伐が大規模に行われて、不要な間伐材がタダで手に入るという情報をアートディレクターの奥野恵さんが聞き込んできたのです。津南の山奥で、舗装されない道の、奥の奥まで入って、間伐材を運ぶ所から、この作品は現実化して行きました。概算では1000本の丸太が必要で、1000本と言うとたいへんで、手伝ってくれる人が嫌になりそうに思えたので300本と言う所で、始めました。
今回の制作を手伝ってもらうメインの人として元・東京スタジオの武田友孝さんを口説いてお願いしたのは、細かい部分も含めると作業量が多くて、自分一人ではやりきれない事が分かっていたからです。それと奥野恵さんのディレクターとしての采配が大きかったのです。どうしても人力に頼るので、小蛇さんというボランティアの人手を適切に回してもらう事が重要だったからです。
木村 静さんが撮影してくれたこの段階では、すでに田麦の村の農民の方々の手助けでチェーンソーで細分化された丸太が運び込まれて、ほぼ床を埋め尽くした段階です。この段階で、後100本以上が足りなくて、この後雨の中、再び津南の山奥に入って、軽トラック一台分の丸太を運びます。雨の中、香港から来てくれた小蛇さんたちが助けてくれて、トラックに乗せます。
水を吸った丸太で、軽トラックが坂を上れなくて、迂回して田麦の現地に着くのですが、この運搬が、今回の山場でした。こういう制作では、事故を起こさないで進めるというのが、重要なポイントです。この危ない運転は私が自分でやって、助手席には木村静さんが乗ってくれました。油断をすると大事故になる運転で、最後に田麦の村の坂を登る途中で登れなくなって、セカンドからファーストにマニュアルのギアを切り替えたタイミングが、最後の勝負でありました。こうして事故にならないで、乗り切って、何とか間伐材の量を埋める事ができました。最後の切断を全部やってくれたのが画家の山口俊郎さんで、これも危ない作業なので、何回か事故らないように声をかけましたが、無事に出来ました。
今回の作品では、壁に絵も描いています。号数的には500号を超える絵を2枚短時間に描く必要があって、家庭用壁塗料で、ローラーと刷毛で描いています。こうした大きな壁画のようなもの、しかも会期が終われば廃棄されるものを、いかに短時間で能率良く描けるかと言うのも、実は考えて何回かやって来ているので、出来る事でありまして、普通の画家には出来ない事です。見ている側からは、たいした事ではないように思えることですが、こうした廃棄を前提にした大きな建築水準の美術作品を、少ない予算と少ない時間で事故無く仕上げて行くのには、それなりの能力の蓄積がないと、段階段階での多くの決断の決定が必要で、そうした事を自分の責任で展開する事は出来ないのです。そう言う意味では、1969年の多摩美術大学のバリケードの中での美術展からはじまった私のインスタレーションの制作の、集約点であると言えます。
今回を最後にして、こうした廃棄を前提にした制作は、できれば止めたいと思っています。何よりも体力的な限界が来ています。
美術作品には、大中小の三つのサイズで区分される領域があります。大というのは、建築美術で、壁画や、今回の様な家全体を使う作品です。
中というのは、タブローで、運搬を前提にした作品です。美術市場に乗るものの基本は、この傾向であります。市場性を前提にした大きな美術というのも、実は中くらいのタブロー的なものを拡大しただけで、位相としてはタブローなのです。
小というのは、本の美術です。イラストレーションや画巻、絵巻物、そして版画、さらには写真などの多くも、この小さい美術です。つまり大である建築美術の系譜、中である市場美術の系譜、そして本の美術の系譜というように、3つの領域と系譜があるのですが、この3つをどれでも適切に作れる能力は、一丁一石では、養えないのです。
おのおのの系譜や位相の違いを、キチンと本当の意味で理解できていないと、根本的な間違いのまま制作してしまう事になります。大きな作品はつくれても、小さなものは作れない作家、そしてギャクに、中くらいのペインティングは良いものが出来ても、大規模な建築美術は作れない人。そうした、さまざまな能力の作家がいます。多くの美術家は、大中小のサイズは識別できても、そのサイズが実は建築美術、市場美術、本の美術という起源の違いに根ざした、本質的な差異を持っている事を理解していない人が大半であるように私には見えます。
とは言っても、それは私自身をも含む事です。私にとっても、なかなかこうした起源を自覚する事がむずかしいのです。制作は一応出来上がってからが、本当の制作の開始でして、こうしたことを詰めて考えて行く必要があります。今週再び越後妻有に行きますが、ここで完成させなければなりません。