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メタル放送大学 3 /スレイヤーとナパームデス、パンテラ、ヘルメット [音楽の頂点]

さて、この3回目は、今までよりもさらに聞きにくい音楽が4つです。

なぜに、こういうひどい音楽が作られ、支持する人びとがいるのか?


いろいろな理由がありますが、

ひとつは時代の温度が上がって、

H2Oの水の比喩で言えば、水は沸騰して水蒸気になって気象化した

だけでなくて、さらに温度はあがって、

水の分子は電離して、原子となって、

荷電粒子を含んだ気体であるプラズマになるのです。


プラズマ化した時代の音楽もまた、多様ではあるので、

一概にここで紹介するヘヴィーメタルだけではありませんが、

しかし、このプラズマ化した時代のひとつの局面を表しているのです。




スレイヤーshow no mercy slayer』


スレイヤーは1981年結成のアメリカのバンド。

音が《第41次元》になっているとともに、

《反音楽》のバンドであることが、大きな特徴と言えます。

スラッシュの極北に位置するバンドです。 



8、ナパームデス - Scum


デスメタルを代表するバンド。

これもライブを見ていますが、《第8次元 信仰領域》の音ですが、

凄いシリアスインパクトに満ちています。




9、パンテラ Cowboys from Hell


1990年代を代表するヘビメタルサウンドです。



10,ヘルメット meantime


不安定なバンドですが、この《第21次元》の音の閉塞感は、

結構好きであります。。



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メタル放送大学 2 /モーターヘッドとメガデスモーターヘッドとメガデス(訂正加筆) [音楽の頂点]

5,モーターヘッド『オバーキル』


モーターヘッドは、アメリカイギリスのアングロサクソン軍が

ベトナム戦争に敗北した1975年に結成されたバンドです。

攻撃的でスピーディーサウンドは、まるでグラインダーで神経を削る

ような《現実界》の音楽で、

後のスラッシュ・メタルの登場につながるものと言われています。


『オバーキル』という曲は、1979年ではありますが、

ベトナム戦争と無関係とは言えないもので、

《第16次元 崩壊領域》の音楽です。


《第16次元 崩壊領域》と《現実界》が音楽に出現する事は

ありますが、

それがバンドとして安定した不変性を持っているのは、

かなり珍しいもので、長年ファンを魅了し続けているのです。


しかしその音楽性は気体化はしていますが、

次のメガデスの様に、プラズマ化はしていなくて、

オーソドックスなロックンロールでありました。




《想像界》の耳で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《第8次元 信仰領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の耳で《第16次元 崩壊領域》の《真性の芸術》

《現実界》だけの単一性の表現
気体音楽

《気晴らし音楽》《ローアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽
【B級音楽】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》は有る。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

メガデス

1983年のメタリカの『キムエルオール』というアルバムの登場は、
衝撃的ではあったが、その曲の6割りは、メタリカから追放された
ムステインの作曲であったのです。

メガデスとして、ムステインが登場すると、音楽はプラズム化たのです。

それに比して、メタリカの音楽は、プラズマ化していない。

メガデスの音こそが、実は《真性の芸術》でありスラッシュであったのです。



《想像界》の耳で《第41次元 戦争領域〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜《第41次元 戦争領域》》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《第41次元 戦争領域〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現

《シリアス音楽》と《気晴らし音楽》の同時表示
《ハイアートの音楽》と《ローアートの音楽》の同時表示

シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示音楽
【A級音楽】と【B級音楽】の同時表示

《原芸術》《芸術》《反芸術》、
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてが有る。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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メタル放送大学 1 /ブラックサバスとジューダスプリースト [音楽の頂点]

メタル放送大学のアンケートに答えた反映です。

「黙示録後の世界に遺したいメタルナンバー10曲」

ということで、【YouTube画像】を貼付けます。
まあ、お好きでない方は、無視して下さい。


1、ブラックサバス『ブラック サバス』 1970年


私見を申し上げれば、このアルバムで初めてロックは、

《非-実体性》を持ち、《超1流》の芸術音楽として、

屹立したのです。

とは言っても、とは言っても、多くの人は、

下品な黒魔術の音楽と思っているよであります。

少なくとも初期のヘヴィメタルの名曲なのであります。

 

ベトナム戦争の激化を背景に、

時代は《近代》という理性の支配に抑圧されていた暗黒の無意識を、

隆起させるホラー的なるものに、新しい表現を見いだして行きます。

ブラックサバスというバンドは、その先駆けとなったのです。

美術で言えば、こういう流れが、後のシンディ・シャーマンの

暗黒的作品にまでつながるのです。




2、ブラックサバス 『血まみれの安息日 』1973年



3,ジューダスプリースト『ブレイク ザ ロウ』1981年

1975年のアメリカの敗戦は、パンクロックという形で、
アングロサクソンの若者の絶望を吹き上げます。
その後の、リエンジニアリングという過酷な産業再編の
嵐が吹き荒れて、多くの失業者と農村の倒産が起きます。

こういう時代背景を背負って、ジューダスプリーストは、
失業し、女房も去って、負け犬となった一人の失業者の
絶望に向って、「法を破れ!」とアジテーションしたのです。
この曲は、全米のPTAを敵に回して、放送禁止になるのです。


4、ジューダスプリースト『ペインキラー』1990年

1991年にソヴィエトが崩壊する前年の1990年に登場した
この曲は、時代が沸騰し、温度があがって、遂に、
分子は解体して電子となり、プラズマ化したことを告知する

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MUSEのライブ/《形骸》と音楽のあいだ [音楽の頂点]


muse2.jpg

muse3.jpg

muse1.jpg








MUSE ウェンブリー・スタジアムでのギグ
彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》 のデザイン的エンターテイメント

                
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
                   ただし《サントーム》はない。
           
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現気体だけの表現。

《気晴らしアート》
《ローアート》

シニフィエの表現

【B級演奏】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原音楽》音楽《反音楽》
《無音楽》《非音楽》《世間体の音楽》のすべてが無い。

ここにあるのは音楽の《形骸》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

MUSEのライブを、武道館で見て来ました。

東京2010.1/12(火)日本武道館
OPEN 18:00/ START 19:00 TICKET¥7,800(アリーナ:スタンディング|スタンド:指定/税込)
一般プレイガイド発売日:11月15日(日)
主催:テレビ朝日/J-WAVE/MTV 後援:tvk/MUSIC ON! TV
(問)クリエイティブマン 03-3462-6969
協力:ワーナーミュージック・ジャパン 企画・制作・招聘:
クリエイティブマン


撮影した写真が、コンピューターに移せなくて、ブログを書くのが
遅れました。

私自身は、ライブの規模が大きくなる事については、
不可避とは考えますが、
その危険性は、何度も見て来ているのです。

古くはピンク・フロイドの『ザ・ウォール』のコンサート
ブルース・プリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・U.S.A.  』のコンサート。
私の見たものとしてはプリンスの1986年の「 Parade tour 」など、頂点を極める巨大コンサートというのは、同時に崩壊へのターニング・ポイントなのです。

【YouTube画像】として貼付けたMUSEの2007年のリニューアルオープンしたロンドンのウェンブリー・スタジアムでのギグは、同様の頂点性を示しています。このライブDVDを太田丈さんにいただいて、その凄さに驚きました。いただいて感謝しています。同時にそこに私は、何度も見て来た崩壊の臭いを嗅ぎつけていたのです。

特に気になるのはマシュー・ベラミーの派手なパフォーマンスで、音楽演奏の必然性を欠いていて、エンターテイメントに堕落しています。小さなコンサート・ホールでのパフォーマンスにあった真摯さは消えて、《形骸》領域に跳躍しているのです。

すでに述べたようにウェンブリー・スタジアムでのギグは、ハイテクノロジーと組み合わさって、凄いのものではありますが、音楽的には《形骸》以外のなにものでもありません。音楽としても《芸術》としても、何も無くて《形骸》が光り輝いているのです。この輝きこそが、今日の高度消費社会とグローバリゼーションーの魔術なのです。そこにあるのは、《芸術》や文化の《形骸》だけなのです。

私たちは、この《形骸》の不可避性を受け入れなければならないし、この《形骸》性を受け入れつつ、これに巧妙に抵抗する方法や、《形骸》を逆手にとって、《形骸》から《真性の芸術》へと反転する技術を見いださなければならないのです。

次に貼付けるのは、小さなコンサートホールでのギグです。
比べてみて下さい。
ここには《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》のすべてがあるのです


Muse - Megalomania - Live and Acoustic



彦坂尚嘉責任による《言語判定法》による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元》から《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元》から《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元》から《超次元》の《真性の芸術》

                
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
                   ただし《サントーム》はない。
           
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現気体だけの表現。

《シリアス・アート》
《ハイアート》

シニフィアンとシニフィエの同時表示

【A級演奏】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原音楽》《音楽》《反音楽》
《無音楽》《非音楽》《世間体の音楽》のすべてがある。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

お料理でもそうですが、限られた少量でお料理して美味しいもの
を作る事はできますが、大量に生産しようとすれば、
どうしても味は落ちます。

ですから現在のようなグローバルな過剰消費社会では、
《真性の芸術》は、小さな限られた中でしか生き得なくなって
来ているのです。

《形骸》化に耐えつつ、《真性の芸術》と《形骸》の両方を、
したたかに使い分ける事。
その技術とマネージメントが必要なのです。

今日のアートマネージメントは、
そうした視野が必要なのですが、
それは、かなりむずかしい事なのです。
私自身は、それに挑戦していこうと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

武道館でのMUSEのライブは、音楽の《形骸》と、
《真性の音楽》のミックスとして展開されました。

巨大会場でのライトアートの展開は、
特にレザー光線を客席の頭上すれすれに打ち込む過激なところは、
面白く見ました。

見て、良かったと思いました。
今日の先端の表現があるということと、
同時に、そのコントロールのむずかしさです。

MUSEは、商業主義に堕落して、
音楽への真摯でしたたかな展開を失ったように見えます。
だからこそ、ビックヒットして、バンドとして成功したのですが、
同時に崩壊と《形骸》へのカタソトロフィーへの崖崩れに入ったのでした。



タグ:muse
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倉橋ヨエコと小島真由美、戸川純、Phewとニナハーゲン(校正1加筆3) [音楽の頂点]


ニナハーゲンの音楽

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で
《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示


シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示


理性脳と原始脳の同時表示

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、

《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。

ニナハーゲンのヴォーカルとグローバル・ミックスチュアー・サウンド

には、今日の情報革命の時代の狂気に満ちた人間の芸術が、

非常に早く先取り的に出現しているのです。

ここに、てんこ盛り路線の頂点の表現があります。

私が買ったのは、1979年日本版のデビューアルバム

Nina Hagen Unbehagen African Reggae

http://www.youtube.com/watch?v=cVYh6bA0b78

でしたが、当時は、理解で来ませんでした。

30年たった今は、高く評価できます。

何という遅れでありましょうか。

ニナ・ハーゲンは東ドイツに生まれ。
反戦運動の首謀者として国外追放となった養父とともに、
21歳で当時の西ベルリンに渡った人。




倉橋ヨエコ「夜な夜な夜な

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元》だけの《真性の芸術》
《象徴界》の眼で
《3次元・コミュニケーション領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の眼で
《第13次元 漫画喜劇領域》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
ただし《サントーム》はない。


気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示


シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示


理性脳と原始脳の同時表示

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、

《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。

倉橋ヨエコは、1976年生まれ。
2000年、ミニアルバム「礼」でデビュー。
この中に入っている「赤い靴」は、なかなか良い。

この「赤い靴」は、
《想像界》で《第6次元 自然領域》、
《象徴界》で《3次元・コミュニケーション領域》、
《現実界》で《第13次元 漫画喜劇領域》
という組み立て。
本人はずいぶん頑張るのですが、
《象徴界》が、あくまでも《第3次元》という基本と、
《現実界》が《第13次元 漫画喜劇領域》という組み合わせの
音楽的な限界を超えることが出来ない。

結局、2008年の「解体ピアノ」というアルバムで、廃業宣言をする。

格を変えるということを知っていれば、乗り越えられたはずなのだが、
残念なことです。


Phew /坂本龍一「終曲」

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》デザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
ただし《サントーム》はない。


気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示

《ハイアート》と《ローアート》の同時表示


シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示


理性脳と原始脳の同時表示

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》がある。

ただし《世間体のアート》がない。

Phewは、この坂本龍一と1980年に出したシングル終曲が、
唯一すばらしい。
当時私は、ずいぶんと興奮して期待したのだが、
その後の展開は、失速して行った。


この後のアルバムは、
確かドイツでの録音もあったのだが、
《象徴界》が《第8次元 信仰領域》という
ミュージッシャンの限界が露呈するだけで、
面白く無かった。

《象徴界》の格というのが、そのアーティストのクオリティであって、
Phewは、《8流》で、無理なのです。


小島麻由美『わいわいわい』

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第41次元 戦争領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《気晴らしアート》

《ローアート》


シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の同時表示


原始脳の音楽

《原芸術》《芸術》《反芸術》がない。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》がある。

小島麻由美は、《象徴界》が《第41次元 戦争領域》である音楽性で、
その面白さは、馬鹿にできないところがある。

結局、アーティストの面白さは、
《象徴界》の格に支配される面が大きいと、私の観察と測定では言えます。

小島麻由美は、象徴界が《第41次元》で、
《想像界》《現実界》を《第6次元 自然領域》で組み合わせています。
この組み合わせは、《第6次元》の取り込みとと処理技術としては、
ユニークだと思います。
声量がないのは聞き苦しいですが、コメント欄で マサオさんが
紹介してくれている下記の曲は、良いと思いました。




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椎名林檎/エゴ・ラッピン/笠置シズコ [音楽の頂点]




笠置シズコ 『ラッパと娘』

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で
《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現

気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》

《ハイアート》


シニフィアン(記号表現)の表現


理性脳と原始脳の同時表示

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》、《非芸術》、

《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。


笠置シズコの残っている音源の中で、

この『ラッパと娘』が、最高に素晴らしいものです。




エゴ・ラッピング 『くちばしにチェリー』

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第3次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第41次元〜超次元》デザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現

気体と液体の表現

《気晴らしアート》

《ローアート》


シニフィエ(記号内容)の表現


原始脳の表現

《原芸術》、《芸術》、《反芸術》はない。

《非芸術》、《無芸術》《世間体のアート》はある。




椎名林檎 『歌舞伎町の女王』

彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で
《第3次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で
《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現

気体と液体の表現

《気晴らしアート》

《ハイアート》


シニフィエ(記号内容)の表現


原始脳と理性脳の同時表示。

《原芸術》はない。

《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。


椎名林檎のはすっぱな歌い方が、飽きる。

結局は《第3次元》で《3流》である事に失望して行く。

《原芸術》、音楽で言えば《原音楽》というものが椎名林檎には無い。

それが、彼女の音楽の浅さであって、聴くに耐えなくなって行く。

エゴ・ラッピンは、もともと浅さに居直っていて、

それはそれで面白い。

それに対して笠置シズコには《原芸術》があって、

ひとつの頂点と言える。

私は、この『ラッパと娘』が最高に好きだが、

黒沢明が歌詞を書いた『ジャングルブギ』も素晴らしい。




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音楽/反音楽/非音楽/無音楽(加筆【YouTube画像】追加1) [音楽の頂点]

coversiemens.jpg

柏原孝昭さんから、下記のようなコメントをいただいた。
柏原さんは、私の現代音楽の先生です。
私と柏原さんでは、聞いている量が圧倒的に違うので、
彦坂尚嘉が、現代音楽の動きに、とやかく言うのは限界があるのですが、
現代美術/現代アートと、現代音楽を重ね合わせて考えていると言う
範囲で、私の考えを書いておきます。

こんにちは。柏原です。
PHONEXのCD聴かせていただきました。まず耳に入って来るのは
ノイズですね。ドラム類の布団をたたけばモクモクとたち現れる
ホコリノイズ。フルート、クラリネットもノイズを多用した奏法で尺八風。
(ライヒのドラミングにはノイズがないですね。ノイズを伴えば
ミニマルな音の構築性に靄がかかる。)

最近聴いた音楽で
面白いなと感じたコンサート2題(HNK-FM)は芥川作曲賞
選考演奏会2009ー小出雅子と、作曲家の個展2009-中川俊郎です。
小出はオーケストラ楽器でない音をふんだんに持ちこみメルヘンチックに
覚醒した音世界を創った。まあ、ライブエレクトロニクもこれにあたるが、
小出は生な素材を扱っているのかな。

中川は楽譜の中に記譜と白紙の部分があって
白紙の部分はオーケストラの即興・インプロヴィゼーション、作品タイトル
合奏協奏曲だからカデンツアでもあり奏者全員がソロでカデンツアを演奏
している。(作曲部分と即興部分の聞き分けはつかない)
3者に共通しているのは、外部の招聘で、楽音以外(ノイズ)、楽器以外、作曲以外によって、音楽の地平を広げようとしている。

最近はアンビエント音楽、環境音楽ーブライアン イーノ風音楽が流行りの
様だけど、退屈音楽。退化音楽の様にも聞える。どうでしょ。これは全面外部だから、退屈なんだ。 
by 柏原孝昭 (2009-11-18 02:45)  


柏原さん、コメントありがとうございます。

概論的に書く事をお許しください。

音楽というものが、ひとつなのだろうか?
という疑問があります。

これを芸術という単語に置き換えても良いのです。
つまり芸術はひとつなのか?

同様に文学を考えても良いのです。
文学はひとつなのか?

彦坂尚嘉が考えるのは、4つです。
つまり音楽で言えば、音楽は4種類あると、
考えます。



1、《反音楽》


まず、反音楽です。
音楽が何であれ、それを否定する表現です。

反音楽の代表は、ジョン・ケージでしょう。


しかし、ジョンケージの音楽は、理性脳による反音楽です。

原始脳による反音楽というのも、あります。

《反》というのは、否定表現ですから、
否定であれば、実は何でも良いのです。

そのひとつが、スレイヤーです。
スラッシュメタルの中でも、《反音楽》としては傑出していて、
グラミー賞には3回ノミネートし、2007年、2008年と続けて
最優秀メタル・パフォーマンスに選ばれています。
4枚のゴールドディスクを獲得しています。



つまりジョンケージも、スレイヤーも、ともに反音楽であります。

言い換えると反音楽には、
理性脳の反音楽と、原始脳による反音楽の2種類があります。


2、《非音楽》

次は、非音楽ですが、これが何であるかは、むずかしいとは言えます。
しかし、正確な定義ではありませんが、デザイン的な第3人称的
表現です。

ひとつはジェルジ・リゲティのメトロノームの音楽です。
良くできていて、傑作だと思います。


リゲティの《非音楽》が理性脳の表現であったとすれば、
原始脳の表現の《非音楽》として、クラフトワークを上げておきます。
いわゆるテクノポップの元祖と言うか、代表的なバンドです。




3、《無音楽》

さて、柏原さんが書いておられたブライアンイーノの環境音楽ですが、
これは《無音楽》です。
《無音楽》というのは、装飾性とか、官能性とかを肯定的に考える
音楽です。
まずは、その代表のイーノの空港のための音楽を聴いて下さい。

彦坂尚嘉の私見によれば、この《無音楽》と、先に述べた《非音楽》の
突出こそが、情報化社会の表現の大きな特徴だと考えます。




イーノの《無音楽》は理性脳で作られていますが、
さて、この《無音楽》の原始脳による表現は、
何と言ってもマドンナのエロチカの出現でした。

まえにもこのブログで掲載した【YouTube画像】で、
重複で恐縮ですが、傑作だと思うので再録します。






4、《音楽》

さて、では音楽とは何か?

音楽そのものは、たくさんあって、私たちは日常的に、
いろいろな音楽を聴いています。

まず、《近代》の純粋音楽の代表として、
シュトックハウゼンの電子音楽を聴いて下さい。
これが《純粋音楽》です。

この前衛音楽は、しかし《音楽》なのです。
このことが重要です。
シュットクハウゼンの全貌を私は、まだ聴いていませんが、
しかしこの曲で聴く限り、
《反音楽》《非音楽》《無音楽》は、ここには無いのです。
これは《純粋音楽》なのです。






さて、シュトックハウゼンが、《近代》という産業社会の純粋音楽である
のに対して、
アンサンブル・フェニックス・バーゼルの音楽は、

《音楽》《反音楽》《非音楽》《無音楽》のすべてが、
同時表示されているのです。
その意味で、《不純音楽》なのです。




私は、アンサンブル・フェニックス・バーゼル
の統合性の高いこの《不純音楽》に、
現在の情報化社会の頂点の表現を見るのであります。
しかし、アンサンブル・フェニックス・バーゼルの《不純音楽》は、
しかし理性脳によるものです。

では、今日の原始脳による《不純音楽》の代表は、何でしょうか?
いろいろあるとは思いますが、MUSEは、その代表でしょう。

来年1月には来日します。
私も太田丈夫さんに誘われて、見に行きます。

MUSEの過剰さというのは、
《音楽》《反音楽》《非音楽》《無音楽》のすべてが、
同時表示されていることによるのです。




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芸術の趣味判断/ダニエル・ブェスのパーカッションを例にして [音楽の頂点]


ダニエル・ブェスのパーカッションは、私には、ずいぶんと
刺激的なものでした。
【YouTube画像】では、あまり伝わらないかもしれませんが、
ライブで見ると、今までの現代音楽とはちがった音楽になっている
ことが、良く分かるのでした。

Ensemble Phoenix Basel Soloists
スイスと日本の新しい音楽

<experiment> 2009年8月1日(土)18:00-20:30 STUDIO 1619

<live> 2009年8月3日(月)19:00
 杉並公会堂・小ホール

みて、すぐにブログに書けば良かったのですが、
感動したせいか、なかなか言葉にならなかったのです。

従来の現代音楽と、明らかに違う時代になったことを感じました。
1975年くらいから、現代音楽の前衛性は、停滞したといわれて来た
のですが、
そうした停滞感は消えるどころか、
まるでロックを聴いているかの様な躍動感と、
エンターテイメント性に満ちてて、
しかも高度の知性と、技術に裏打ちされて、
120パーセントの満足があったのです。

この音楽会は、作曲家の川島素晴さん山根明季子さんが
やっているeX.(エックスドット)というシリーズのひとつでした。

       / Ensemble Phoenix Basel  

998年の設立以来、バートウィスルのオペラ《パンチ&ジュディ》、カーゲルの《マーレ・ノストルム》、マルターラー監督による
《月に憑かれたピエロ》などの注目すべき公演、WERGOのミューラー=ジーメンス作品集をはじめとするCD録音に携わってきた。
33名に及ぶメンバーはそれぞれ現代音楽のスペシャリストであり、スイスを代表する現代音楽アンサンブルとして、バーゼルでの
定期演奏会の他、スイス国内各地はもとより、ヨーロッパ諸国、中東、アジアなどの現代音楽フェスティヴァルに多数出演している。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

何が、今までと違うのか?
その差を言い当てる言葉を探して行くのが、
彦坂尚嘉の《言語判定法》なのです。

彦坂尚嘉の《言語判定法》自体を、
いかがわしいと言って批判する人がいます。
その気持ちは分かります。

その人たちに理解して欲しいのは、
物事には、「判定」が、現実には行われている事です。

谷崎潤一郎の『文芸読本』でも、
文章の善し悪しを、問題にしていて、
その時の例として、お酒の品評会の話が出て来ます。

つまり芸術の趣味判断の背景には、
実は味覚の趣味判断があります。

このことは美学者の谷川渥氏も書いています。

18世紀に、ヨーロッパが世界に侵略をして植民地を持つと、
世界中から食べなれない新しい食物が入って来て、
それをヨーロッパの貴族が「これは美味しい、あれはマズい」と
判断する所から、芸術の趣味判断が始まったのです。

ですから、芸術の趣味判断は、食べなれないもの、新奇なもの、
めずらしい食べ物を食べる所から始まります。

同じものしか食べない人は、趣味判断は出来ないのです。

音楽でも同じことが言えます。
めずらしい、今までに聞いた事の無い音を求める気持ちの無い人
には、芸術の趣味判断はできないのです。


良く分からない前衛美術や前衛音楽の判断のためのものなので
あって、貴族趣味なのです。

ですから、貴族的ではない人には、実は芸術の趣味判断は無理なのです。
そもそも高級料理とか、高級芸術というのは、
貴族的なものであって、下層のホームレスや浮浪者のためのもの
ではありません。

漫画を読んでいる下層の人々には、
芸術判断の必要性は、もともと無かったのです。
このことは不愉快な事ですが、事実としてあるのです。

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現実には、お酒の品評会は行われていて、
それは日本酒であろうと、ワインであろうと、存在しているのです。

そしてまた『格付け』というのは、
フランスミシュラン社により出版される様ないろいろなガイドブックで、
ホテルやレストランは、格付けされているのです。

この格付けについても、批判は様々に行われていて、
人によって、格付けの判断は、必ずしも一致しないものでもあるのです。

そしてまたムーディーズの企業や国家財政の信用について、
格付けは行われています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
この日聞いたダニエル・ブェス / Daniel Buessは、
どこが、新しかったのか?


例えば、昔の現代音楽を代表するクセナキスの
パーカッションの音楽を聴いて下さい。
ここには、たとえば「純粋音楽」とか、
「理性脳による音楽」という言葉が当てはまると、
私は、考えるのです。



同じ事は、1970年のスティーブ・ライヒのドラミングにも言えます。
これは私もライブを見ていて、大好きな曲ですが、
この音楽にも、「純粋音楽」とか、「理性脳の音楽」という
言葉が対応すると、私は感じます。



ところが、ダニエル・ブェスの音楽には、
純粋音楽と、キッチュな音楽の同時表示が行われているのです。

別の言葉で言えば、理性脳の音楽と、原始脳の音楽が、
同時に存在しているという、そういう豊かさなのです。

私は、ここに情報化社会特有の表現の質を見るのです。

つまり《近代》の芸術が、キッチュを排除する所で成立した
のに対して、情報化社会の現代においては、
古いキッチュな表現を再評価しつつ、
単なる復古ではなくて、
キッチュと純粋芸術が同時表示されて、
新しい統合がなされていると、私には聴こえるのです。

もちろん、インプロビゼーションが大量に入り込んでいる事も
あると思いますが、
そのことを含めて情報化社会の表現の特徴だと思います。


付/あとで『アートの格付け』を加筆します。



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ジョン・ゾーン [音楽の頂点]

 
John Zornの音楽
《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》《ハイアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽、シニフィエ(記号内容)がない。
【A級音楽】

ジョン・ゾーンは、むかし、もっと過激だったのですが、
いつのまにか、ジャズという枠組みの中に入ってしまったのでしょうか、
最近は追いかけていないのですが、
なんとなく、そういう古さを感じています。
何か、新しい事を知っている方がいれば、教えて下さい。

別の話になって、恐縮ですが、
私の活動は、2010年代、別の次元に移行します。
晩年の作品制作と、ギャラリー活動へ集中化していきます。
そのことをジョン・ゾーンの穏健化と重ねて、書いておきます。
このブログで、追いかけて来たある「生(なま)さ」は、
あくまでも2009年代の追求であったということです。

言語としての詩的な「生(なま)さ」の追求は、
今、始めているツイッター小説の方に、移行させます。

それでも、このブログが継続できれば、
学問としての芸術の追求そのものは、
地味にですが展開できればと思います。



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高田渡/ボブ・ディラン/ウディ・ガスリー/頭脳警察 [音楽の頂点]


高田渡/生活の柄の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ローアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽。

《無芸術》の音楽、《芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

日本のフォークソングの中で、ひとつの頂点と言うべきものが、
高田渡の歌だろうと思います。

高田渡の音楽が、《超1流》〜《41流》までのすべての領域を
持っているという意識の広さは感動的なもので、
フォークソングがここまでの深さに達する事に驚きがあります。


歴史的に言えば民族音楽と言われるもの
のほとんどは《第6次元 自然領域》です。


沖縄民謡に《第1次元 社会的理性領域》のものがたくさんあるので、
例外はというか、
しかし民族音楽は《第6次元 自然領域》が基本です。
一応私は小泉 文夫が生前に編纂した民族音楽全集は買って、
一度は全部聴いたはずなのですが、
もっとも今探すと、そのレコードの塊がでて来ません。
本当に買って聴いたのか、夢の思い込みか、定かでなくなりますが、
かなり聴いているつもりです
売ってしまったのか?

ただ高田渡の音楽は、《芸術》ではなくて《無芸術》なのです。
《無芸術》というのは、装飾や、手芸などに見られるもので、
さらには性的な表現を肯定的に描いている官能的な領域です。

俵屋宗達の絵や、アンリー・ルソーの絵画。
そしてゴヤの裸のマハ。
着衣のマハは《芸術》になっています。
しかしゴヤの作品の重要なものは、版画も含めて《無芸術》です。

ルーベンスの裸体のあふれる絵画も《無芸術》です。

ティツィアーノの裸体画も、《無芸術》です。

それと重要なのは、
マチスが《無芸術》であるという事です。
『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』という
マチスの志向は、実は《芸術》ではなくて、《無芸術》を指し示す
ものであったのです。

つまりこのように見てくると、
私たちが《芸術》という名前で呼んで来たものが、
実は《芸術》と《無芸術》の混合したものであったのです。

この差は官能性に対する態度です。
装飾やエロティシズムを否定して成立するのが《芸術》です。
逆に、装飾やエロティシズムといった人間の官能性に対する欲望を
肯定して成立するのが《無芸術》なのです。

ですから《無芸術》が悪いと言っているのではないのです。
高田渡の歌は、宗達やマチスという《無芸術》と、同じ《無芸術》
であると言っているのです。


ではフォークソングのほとんどは《無芸術》なのか?
たとえば、おそらく大きな影響を与えたであろうボブ・ディランの
音楽も《無芸術》なのでしょうか。
違うのです。
ボブディランの音楽は《芸術》なのです。
下の【YouTube画像】を聴いて下さい。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》の音楽、《無芸術》《反芸術》《非芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
高田渡が、《ローアート》であったのに対して、
ボブディランは、《ハイアート》なのです。
つまりボブディランの音楽は、伝承音楽という民衆音楽の
範囲を超えて、個人の独創的な私性として、表現が切り出されて、
《ハイアート》になっているのであり、
《無芸術》ではなくて《芸術》になっているのです。

私もボブディランは武道館に見に行った事が一度ですがありますが、
もの凄い音楽家で、圧倒された経験があります。

このアメリカ・フォークソングの《芸術》、そして《ハイアート》
という性格は、ボブ・ディランから始まった事でしょうか?

ボブ・ディランに大きな影響を与えたウディ・ガスリーを
聴いてみましょう。
ウディ・ガスリーは、高田渡にも大きな影響を与えたと言われます。




ウディ・ガスリーの芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》の音楽、《無芸術》《反芸術》《非芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こう見てくると、高田渡の音楽は、
確かに凄いレベルの高さを示して入るのですが、
しかしウディ・ガスリーが切り開いた
最下層の民衆音楽の中から《ハイアート》の《芸術》を立ち上げた
そうした驚愕すべきフォークソング革命の凄さはないのです。

むしろ再び、低い《ローアート》に回帰させ、《無芸術》の官能の
中に沈み込んだのです。

ウディ・ガスリーにまでたどって見る時、
フォークソングに代表されるカンターカッルチャーというのは、
決して《ローアート》や《無芸術》の復権ではなかったのです。

最下層から《芸術》が立ち上がってくると言う、
《芸術》本来の革命性の上昇する凄みがあったのです。
最下層からの《芸術》革命こそが、《真性の芸術》の根拠なのです。

それは黒人音楽のブルースの《芸術》としての成立までに
遡るものであり、アメリカ文化の根底にある《芸術》と
《ハイアート》へと屹立するエネルギーを持つ豊穣な大地なのです。

さて、再び高田渡を見てみましょう。
高田渡は1949年生まれ。
父親は、詩人・活動家・元共産党員の高田豊です
その父親の影響もあるのかもしれませんが、英
彼のデビューを印象づけた『自衛隊に入ろう』という歌は
すぐれたものです。
1968年第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与えたのです。この【YouTube画像】が貼付け禁止でできないので、代用品ですが、お許しください。



高田渡/「自衛隊に入ろう」の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ローアートの音楽》

シニフィアン(記号表現)の音楽。

《無芸術》の音楽、《芸術》ではない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

高田渡の中にあるこうした反戦の意思と、
《無芸術》という性格は、深い所でつながっていると、
私は、思います。
《芸術》というものの根底には、帝国主義的なものがあると
私は思うからです。

この「自衛隊に入ろう」という1968年の歌の出現から2年後、
頭脳警察が結成されます。

1970年にパンタ(中村治雄)、トシ(石塚俊明)の2人のバンドとして結成。

「ダサくてもいいからオリジナリティに満ち、自信をもって人前で演奏できる」
ことを目指した頭脳警察というバンドは、《無芸術》ではなくて《芸術》を
成立させたバンドとして傑出していると私は思います。

その初期の2枚のアルバムを聴くと、フォークソングであって、
しかし同時に日本で最初のパンクバンドなのです。

それは世界的に見ても早いのであって、ラモーンズも、
ニューヨーク・ドールズも、マティスミスも、
セックスピストルズもまだ出ていない段階で、
頭脳警察は、パンクの音を生み出しています。
それは私も感動する創造性なのです。
日本にもオリジナルの音が生まれたからです。

この創造性と、日本赤軍は深く関わっていました。
頭脳警察が演奏する「銃をとれ」は、
聞き苦しいので、最初には、柔らかい方を載せます。
後ろにあるのが、オリジナルです。

オリジナルの「~イントロダクション~世界革命戦争宣言/赤軍兵士の詩/銃をとれ(Part 1)」は、頭脳警察のファーストアルバムの最初に収録されていましたが、発売禁止になりました(1972年3月)。

この音楽は、私はオリジナルのライブで、当時聴いています。

【YouTube画像】で見れるその演奏は見にくいですが、
トシ(石塚俊明)のパーカッションの演奏はすばらしいです。
我慢して聴いて下されば、
高田渡的な日本の《無芸術》を乗り越えて、
日本のフォークソングの流れの中から《芸術》が立ち現れる、
そのあまりに不愉快な瞬間を見ていただけると思います。

それはしかし政治性の問題ではありません。
《ハイアート》というのは主体を切り出し、《芸術》として立ち上げる
その意識のありようなのです。
それは《無芸術》的なるものとは違うのです。

だからと言って、私は高田渡を批判しているのではありません。
人間には官能性が必要であって、《無芸術》にも、
重要な根拠があると考えます。
言いたいのは、《無芸術》と《芸術》は、
混同できない差異があることです。

頭脳警察の、
「ダサくてもいいからオリジナリティに満ち、自信をもって人前で演奏できる」音楽を演奏しようという態度にこそ、《ハイアート》と《芸術》の根拠があるのです。


頭脳警察の「銃をとれ」の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》と《反芸術》の同時表示の音楽、
                《無芸術》《非芸術》ではない。



頭脳警察の「世界革命戦争宣言」の芸術分析

《想像界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》
《現実界》の耳で《超次元〜第41次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アートの音楽》
《ハイアートの音楽》《ローアート》ではない。

シニフィアンとシニフィエの同時表示の音楽。

《芸術》と《反芸術》の同時表示の音楽、
                《無芸術》《非芸術》ではない。


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