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糸崎公朗/(京都/本島)高松と駆け足旅行【4】(改題1改稿1加筆2画像追加) [日記]


糸崎デュシャン.jpg

【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】

本島まで行ったついでに、高松まで行って、
高松市美術館での企画展を見て来ました。

コレクション+(プラス)メタモルフォーゼ!!!!! 変身アート
(高松市美術館×丸亀町アートプロジェクト連携企画)
会期  2010年2月20日(土)~3月28日(日)

糸崎公朗さんが出品なさっていたからです。

糸崎公朗 Itozaki Kimio

「非人称芸術」のコンセプトを提唱し,写真を素材とした立体作品「フォトモ」などを製作。

今回は「変身は言葉から-デュシャンと対話するフォトモ」と題し,美術館コレクションと自作を組み合わせた展示を自らキュレーションする。


 

正直言って、私にはつまらなかったのです。

デュシャンと並べると、デュシャンの作品の良さばかりが見えてしまった。

図式すると次のような構造です。


    糸崎公郎           デュシャン

  《原芸術》が無い。      《原芸術》が有る。

  《芸術》が無い。       《芸術》が有る。

  《反芸術》が無い。      《反芸術》が有る。

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆     ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

  《非芸術》が有る。      《非芸術》が無い。 

  《無芸術》が有る。      《無芸術》が無い。 

《世間体のアート》が有る。  《世間体のアート》が無い。

糸崎デュシャン2.jpg

 

【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】


糸崎さんの作品は、《ローアート》であって、

あくまでも《世間体のアート》であるに過ぎないのです。

糸崎さんには、デュシャンの芸術性の高さというものが

見えていないように、私には見えたのです。


一番ひどいのは、デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」(1941)

に対して、その展示の形態への類似から、リカちゃん人形の

ボックスセットを対置しているものです。

解釈は自由ですから、かまいませんが、馬鹿馬鹿しく

私には見えてしまいました。


糸崎デュシャン3.jpg

【注意:上記映像は彦坂尚嘉のコラージュで、高松市美術館に展示された作品ではありません】

 

 

デュシャンの携帯用美術館「旅行鞄の箱」を展示する開帳の形は、

この作品の本質ではないからです。

本質は、自分の作品のレプリカで、小型のレプリカコレクションを

つくって、美術館と称して、美術制度の外に出ている事です。

 


しかしあらためてデュシャンの作品を見直す機会としては、

刺激的であったのです。

特にデュシャンの作品に、鑑賞構造がないという事です。

 糸崎公朗さんのフォトモには、《愛玩》という鑑賞構造があります。


鑑賞構造がない作品というのは、日本人ではすでに何人か見つけて

いますが、そういう作品の系譜というものを、改めて考えたく

思いました。

少なくともネオダダのラウシェンバーグや、ジャスパー・ジョーンズ

には、鑑賞構造はありますし、コスースにもあります。

シンディシャーマンにも、ジェフクーンズにもあります。

鑑賞構造を放棄するという制作論が、現代美術の主流を形成して

来たようには見えないからです。


これについてはもう少し考えて、改めて書きたいと思います。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎さんの作品について考えようとすると、

どうしても《世間体のアート》とか、《骨董》性とかにぶつかります。

それについて考えようとすると、

思考的には出来ますが、厳しいのです。


《世間体のアート》論というのは、むしろミケランジェロとか、

ティツアーについて論じる形がよいのです。

おそらく糸崎公朗さんを論じるには、別の視点が必要な

なのだろうと思います。

作品的には論じなくても面白さがストレートに

伝わってしまうからです。

そういう直接性が、糸崎公朗さんの作品の魅力です。


デュシャンはまったく逆でありまして、論じないと、

何がなんだかわからない作家であるのです。


その意味で、2人の組合わせは、ミスマッチの企画だったのです。



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