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文明様態選択の自由 [生きる方法]

コメントをいただいている 川上直哉さんへのお返事です。
長いので省略して、
中央部分だけにお返事します。
後半ば、別の機会に書ければと思います。

しかし、三位一体論は、もちろん、
西欧に農業革命が起こる前から、存在しました。
それは、「唯一神」を「父・子」に分ける理論から始まり、
「聖霊」の理論によって、無限に分化することに至ります。
その背景には、古代ローマの「古代的資本主義」というべきものがある。
それは決して中世西欧的「農業社会」を背景に作られたものではない。
この点は、重要かと思われます。

上記の論理は、私の組するところではありません。

古代ローマの「古代的資本主義」というのは、すでに農業革命後の
事象です。

彦坂尚嘉の理論的枠組みは、《全人類史》というものですので、
人類が農業を始めて以降に、世界宗教と言われるものが始まるので
あって、それは西欧と古代ローマを区分しては考えないのです。

川上さんは、古い西欧中心主義に捕われています。
一度その枠組みを外して、《全人類史》でお考えになってみる
ことも、お薦めします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「農業社会」的トマスの「三位一体論」以外のうち、
現代において私が有効であると思われるのは、
「関係の類比」と呼ばれるものです。
それは、無限分化する全体が、
関係性において一体性を保つという理解です。
その概念は、「農業社会」においては異端視されるものです。
しかし、近代以降、K・バルト以降の現代に至るまで、
「関係の類比」としての三位一体論は、
世界を説明する原理として、有効性を有していると思われます。

ロランバルトの理論枠は古いのです。
実際にロラン・バルトは、1980年に亡くなっているので、
1975年にアメリカがベトナム戦争に敗れて以降の、
《近代》の崩壊の出現を見ていないからです。

つまり私たちが今、議論している現代という状況は、
1975/1991年という《近代》の崩壊以降の爆発的な状況なのです。

哲学者でいえば、たとえば少なくともボードリヤールの
『透きとおった悪』(1990年)が素描したような状況です。

いわゆるポストモダン状況ですが、
これは今日ではボードリヤールの素描した状況は、さらに進化して
いるのです。
実際ボードリヤールは2007年に死んでしまっています。

ご指摘の「関係の類比」というのは、
情報科学が、ビットという概念で組み立てられている事の内に
組み込まれています。
ビットというのは、差異の最小限化という考えです。

この情報理論の内に「関係の類比」という構造が組み込まれてしまった
という事態は、これだけで起きたではありません。

《近代》においては重要であった「抽象」という概念の有る一面は、
情報化社会でのレイヤーとか、過防備都市(セキュリティ)等々に
組み込まれてしまって、まったく違う様相になっています。

つまり《近代》にあった重要な概念や価値枠は、
情報化社会では、部分化してしまって、違う次元に組みこまれた
のです。

それと同時に、《近代》にあった重要な関係構造が解体されて
きています。

ベルトコンベアー型生産のラインとか、終身雇用制、年功序列、
デパート、新聞社、 マスコミュニケーション。定価。
地震予知、天気予報の中期予報、
核家族、近代個人主義、国民皆兵、官僚、ジェンダ、学校、
純文学/大衆文学の区分、
純粋芸術、純粋主義、前衛美術、抽象美術、平面絵画、立体作品、
画廊/画商、評論家/批評、
本、レコード、2D映画、

産業革命が成立して、教会が支配する時代が終わって、
科学の時代になっても、バチカンが崩壊しなかったように、
情報革命が成立して、多くの《近代》の産物が終わっても、
《近代》は残って続くのは確かです。

新聞社にしても、大手のいくつかは倒産するでしょうが、
それでもいくつかは生き残って、小さくなって継続します。
それはそうなのですが、
しかし確実に、時代は変わって、《近代》は古く小さくなるのです。

それは神学が古くなったように、哲学も古くなるのです。
モダンペインティングが古くなり、近代小説は古くなるのです。

恐竜の時代が終わっても、は虫類は小型化して、
トカゲは今も生き残っているように、
宗教も小型化して生き残るし、
哲学も小型化します。
近代小説も小型化するのです。
吉本ばななは、トカゲなのです。

近代芸術も小型化して生き残るのです。
奈良美智が示しているのは、そうした近代絵画のトカゲ化なのです。

松井みどりが示した「マイクロ・ポップ」というのは、
現代美術の小型化であり、トカゲ化なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


《全人類史》で、考えると、区分は単純化します。
時代によって、その時代を支配している知的構造が変化するのです。

自然採取時代・・・・・呪術魔術   占い/まじない
農業化社会・・・・・・世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想
産業化社会・・・・・・物理科学 科学思想/近代哲学
情報化社会・・・・・・情報科学 マネージメント/サントーム

この変化の比喩の根底にあるのは、
水(H2O)の比喩で、温度が上がると様態が変化するという
かたちでの説明です。

時代によって、文明の様態が固体→液体→気体→プラズマ
と変化すると、それに伴って、知的構造も変化するのです。


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自然採取時代・・・絶対零度で、空気まで凍り付いていて、動きません。
         アボリジニは、5万年同じ生活をしていたと
         言われますが、歴史がほとんど流れないのです。
         
         呪術魔術が支配し、占い/まじないが、知的な構造
         なのです。この世界が《想像界》なのです。
         《想像界》というのは、魔術や呪術が支配し、
         偶像崇拝が行われている知的世界です。
         これは現在も現在も継続しているのです。

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農業化社会・・・・・農業をするようになると、社会の温度はあがって、
          氷は氷河となって、ゆるやかに動き始めます。
          歴史が流れ始めるのです。氷河の跡は明確で、
          この時代は歴史は理解しやすいものなのです。
          ゾロスター教、ユダヤ教、キリスト教が




世界宗教 神学/ギリシア・インド・中国思想



その中で、情報化社会というのは、
温度が上がって、水(H2O)は気体分子化し、
さらに温度が上昇してプラズマ化しているという、
今日の様態の指摘です。

ですから、こういう変化の中では、神学的な立場は古くなって
いるのです。同様の事は、画家という立場にも言えて、
画家は古い骨董的な職業になっているのです。



ただ、古い意味での哲学や神学は、今日でも存在し続けて、
意味を生産はしています。そのことを私は認めます。
カソリック神学からの現代美術論もあって、私も読んでいます。
いま本が見つからなくて題名が出て来ませんが、良いものです。
ふるくはゼードルマイヤーの『中心の喪失』という名著がありました。

しかし私見では、文明の高度化は、様態をさらに変化させているので
あって、今日の情報文明をコントロールしている理論の場は、
従来の哲学ですらないところに移ってしまっていて、
ロラン・バルトも、今日の事態を把握しているとは
言いがたいように思われます。


(中沢新一さんの最近の議論は、その一形態です。
ただし、そこには、最深奥部に致命的な欠陥があるのが残念ですが。)

以上、第一の事柄として、
「三位一体論の崩壊」というご指摘に、反論いたしました。

私自身は、中沢新一の評価は低くて無視するだけですが、
私の言っている理論的な枠組みは、
人類の文明の様態変化なのです。

つまり

自然採取時代・・・・・・絶対零度の氷の様態で不動
農業化社会・・・・・・・氷河のように流れる氷状態
産業化社会・・・・・・・氷が溶けて水になって川のように
            流れる状態。
情報化社会・・・・・・・水が蒸発して気体分子状態になり、
            さらにプラズマ化した状態。

古典的な「三位一体論」というのは、あくまでも農業化社会での、
氷のような社会/人間関係の中で組み立てられています。

産業革命が波及して、文明の様態が、氷が溶けて水のような流体に
なると、人間関係では大家族が解体されて、
核家族という形態に分解されます。
ここで「三位一体論」は、核家族の父と母と子共という形態に
実体化したとも考えられます。

情報化社会になると、核家族も解体し、独り住まいが増えて行きます。
こういう中で、すでに述べたように、
「関係の類比」というような構造は、情報科学のビットという単位の
中に組み込まれ、そういう形で、解体されているのです。

神学をなさっているというお立場は尊重いたしますが、
そのスタンスに立つと、なかなか現状を把握するのがむずかしくなる
と思います。
同様の事は私にも言えて、画家という立場に固執すれば、現状把握は、
出来なくなるのです。
ですからブロガーという立場の方が、まだましだと考えています。

締め切りの仕事がなかなか終わらなくて、
遅れ込んでいるので、あまり整理して書けませんでした。

川上さんに、私の言っている文明の様態変化にともなう、
知の構造変化ということを、分かっていただけないとは思いますが、
今日の社会関係、分かりやすいところでは人間関係が、
全部ではないですが、かなりのところが気体化し、さらにプラズマ化
して来ているのです。
正確には絶対零度、固体、液体、気体、プラズマの5様態が、
現在の社会の中では混在しています。
この混在をマトリックスの図で説明は出来るのですが、
それは別の機会に譲ります。

つまり「三位一体」が解体されているのは、
全体的な状況ではなくて、固体性の残っているグループの中では、
むかし通りに生きているのです。
それは事実だと思います。

今日の一人の人間は、各自の欲望にしたがって、自由に、自分の
生きるべき文明様態を選択する事が、かなりの量できるのだと
思います。

《文明様態選択の自由》というのが、可能な時代になったのです。




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アバター(加筆1) [映画]

avatar-movie.jpg

まきなが『アバター』を見て来ました。
ジェームズ・キャメロン監督自らが開発した
フュージョン・カメラ・システムは、奥行きの深い3D映像を生み出し、
画期的な映画体験を味合わせてくれました。

2010年代の始まりを予告し、
そして村上隆のスーパーフラットの息の根を止めた、
モニュメンタルな3D映画です。

Avatar movie image (3).jpg

峯村敏明氏という美術評論家は、娯楽映画を見ない高尚主義者ですが、
それは間違いです。
1993年のスピルバーグの映画『ジェラッシクパーク』は素晴らしい
創造的な娯楽映画でした。
そして2001年に公開された『ロード・オブ・ザ・リング』もまた、
2000年代を表示する偉大な3部作でありました。
このジェームズ・キャメロン監督の『アバター』もまた、
2010年代を決定し、今後の3D映画を決定づけた映画史上の革新的
な作品なのです。
映画というものが3D化して、真に情報化社会の映画として生まれ変わった
のです。それはプラズマ化に成功した新しい時代の新しい映画メディアの
誕生を決定づけたものです。


これが『アバター』の舞台裏だ! 撮影風景がついに公開

今回、使われている技術は「エモーションキャプチャー」というものだそうで、俳優の体中にマーカーを付け、その動きをコンピュータに取り込み、それをベースにCG製のキャラクターを作り出す方法に「パフォーマンスキャプチャー」という技術があって、この技術を進化させたもので、体の動きだけでなく、人の表情までもを表現できる技術で、俳優の表情を、キャラクターで再現することが可能になった。こうして『アバター』で、演じている俳優とCGで作られたキャラクターの表情が連動するという画像が実現したのだそうです。
【以上の情報出典:これが『アバター』の舞台裏だ。http://news.livedoor.com/article/detail/4552191/

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映画館での上映がそろそろ終わろうとしていますので、
見ておられない方は、必見の映画ですから、
ぜひ、3D英語版の上映館でご覧になることをお薦めします。

映画を見て驚かされるのは、宮崎駿の様々な映画の影響が見られる事です。
それは映像を超えて、原始の野蛮への回帰というイデオロギーまでおも、
宮崎駿の影響として強く打ち出されている事です。
ジェームズ・キャメロン監督自身が、宮崎駿へのオマージョを公言しています。
『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『ハルルの動く城』などが垣間見えます。
押井守の『甲殻機動隊』や『イノセント』の影響も見られます。

文明の中の野蛮への回帰の流れを増幅したイデオロギー性も、
この2010年代の時代の流れを予告したものと言えます。

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タグ:アバター
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