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北川フラム更迭される(大幅に加筆) [状況と歴史]

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北川フラム氏が新潟市美術館館長を更迭されました。
もともと北川フラム氏の根本にあるものは、学問やアカデミズムと
いった蓄積型のフォーマルなものではありませんでしたので、
こうした破綻は、予想し得るものであって、私には驚きはありません。

北川フロム氏の館長としての運営を批判する『新潟市美術館を考える会』
の運動も、この更迭に大きな力を発揮しています。
詳しくはこのブログの後半部をご覧ください。

興味深いのは、この『新潟市美術館を考える会』の住所が、
新潟にあるのではなくて、東京にある事です。
そして東京でなじみのある人びとが多く入っています。
最後にリストを載せていますのでご覧ください。
新潟県内の政治闘争というよりも、東京での2つの勢力の激突という
印象すらがあります。

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『新潟市美術館を考える会』の批判は当然だと私は思います。
むしろ北川フラム氏は、破天荒なやり方で、良く、ここまで頑張って
こられたのと私は思っています。
ご苦労様でした。
ゆっくり休んで下さいと、北川フラム氏には申しあげたいと思います。

2000年代は越後妻有アートトリエンナーレの時代でしたが、
その背景には、アメリカの根拠なき熱狂がありました。
これが破綻して、新しい時代が始まるという2010年代であって、
この更迭は、こういう時代の変化と、無縁ではありません。

芸術的な根拠無き熱狂の時代は終わったのです。
芸術を厳密な学問として成立させることを努力する人びとの時代が
再開する事を、祈念します。




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以下に引用するのは、新潟市美術館を考える会のマニフェストです。


─提言、あるいはマニフェストとして─
 
 新潟市美術館は今、“瀕死”の状態にあります。否、見方によっては“頓死”してしまった、と言えるでしょう。
 
 わたしどもの新潟市美術館は、1985年開設以来凡そ20年間、“市民に開かれた美術館”を目指して鋭意運営に努めて参りました。そのためまず「みる・つくる・語る」の3つのテーマを課題とし、これに基づき郷土作家をはじめ内外の優れた美術作品の収集、おなじく内外の内容豊かな各種企画展の実現、また講演会、講座、実習、広報による教育普及活動を行ってきました。幸い、わたしどもの健全かつ真摯な運営と展観活動並びに作品収集の実績は、地元新潟市民はもとより、わが国の美術関係者の注目と信頼を集め、高い評価を得ることができました。但し、この実績と声価はあくまで過去のものにすぎません。事態は一変しました。
 
 2007年4月、新潟市美術館の館長に、株式会社アートフロント・ギャラリー代表の北川フラム氏が就任したのです。同氏はまた新潟市美術企画監という前例のない役職に就き、2008年4月からは、同市新津美術館長をも兼務するという、これまた異例の人事が市の行政によって行われました。
 
 実は、北川館長就任に至るまで過去3年間に3人の館長の異動が行われていたのです。2代目の斉藤修館長が2004年3月退任後、新潟大学名誉教授、久保尋二氏が同年4月、3代目館長に就任しましたが、2006年3月退任、次いで新潟市職員の大科俊夫氏が館長に就任したのも束の間、僅か1年で退任、そして、北川フラム氏の館長就任と相成った次第です。3年間に3人も館長が変わる、という前代見聞の人事を市の美術行政が行った訳ですが、考えようでは、北川氏を館長にするための、これは布石であり、先任者たちはいわば露払い、あるいは真打ち登場までの前座の役を担った、と言えましょう。北川氏は、さらにまた2009年7月から新潟市が企画した「水と土の芸術祭」の開催に際して同祭実行委員会のディレクターにも就任しました。市当局の北川氏への絶大な信頼の証(あかし)であり、瞠目すべき厚遇と言う他ありません。
 
 しかしながら、市当局の美術行政は、北川氏の館長就任に際し入れ替わりに、美術館開設当初から館運営に尽力してきた学芸員を異動させ、館長就任後には全員の異動を敢行したのであります。市美術館の収集作品の来歴、知識、管理、保存、展示に精通するこれらベテラン学芸員たちが不在となった新潟の美術文化発信の拠点は、今やアートに名を借りた、やたら金のかかる文化祭のイベント会場と化した観があります。そして最近、ついにその成果(?)が現れました。本来なら自然環境の中で配置・展示すべき「水と土」の作品を、こともあろうに美術館の展示室に設置するという、あってはならない珍事が出来したのです。
 
 北川フラム氏は、ご存知「大地の芸術祭」越後妻有アート・トリエンナーレの総合ディレクターとして、関係の作家、評論家、ジャーナリストの評判も良く、その辣腕には見るべきものがあります。この度新潟市美術館の館長に就任して真っ先に企画、プロデュースしたのが「水と土の芸術祭」だったのは、おそらく越後妻有アート・トリエンナーレの“新潟バージョン”の実現を狙ったものと思われるのです。
 
 新潟市側は市美術館の“旧体制”(?)を打破するための改革者として北川氏を破格の厚遇で迎えましたが、改革には、改悪と改善の両極が孕まれるものです。もし従前の市美術館が旧態然として運営されていたならば、その古い革袋に新しい酒を盛ることも可能なのです。しかし、どうやら、古い革袋を捨て去り、新しい酒は新しい革袋に盛ろうと意図しているようであります。
 
 ともかくも、今、新潟市美術館は健全に機能していません。北川氏が館長に就任以来、これまで同館と連携、協力してきた市民、作家、関係者、研究者、美術館、博物館、画廊、そして報道関係者(北川氏をもてはやす一部報道記者を除き)からは、現状を疑問視し、危機感を抱く声が聞かれるようになっています。
 
 さて、新潟市美術館で、今、何が起きているのか、何処へ向かおうとしているのか、事態急変かつ不可解きわまる現状について、これまで同館に少なからず関わり、何かとご助力ご支援くださった有志の方々にお集まり願い、《新潟市美術館を考える会》の名の下に、真剣に語り合いたく、ここに一文を草した次第です。これによって《新潟市美術館を考える会》設立の趣意書、またマニフェストといたします。
 
2009年8月6日
 
林 紀一郎 (前・新潟市美術館顧問、初代館長)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 会員

2010年2月24日現在  (18名)
代表
林 紀一郎
美術評論家、初代新潟市美術館館長

本江 邦夫
多摩美術大学教授

名古屋 覚
美術ジャーナリスト

笹木 繁男
現代美術資料センター主宰

金澤  毅
美術評論家、成安造形大学名誉教授

岡崎 球子
岡崎球子画廊主宰、アートプランニング集団「オカザキラブ」「地球分室」主宰

木村 希八
木村希八版画工房主宰、美術作家

平岡ふみを
アートウォッチャー

日夏 露彦
美術評論家


青木  茂
文星芸術大学特任教授、元町田市立国際版画美術館館長


市橋 哲夫
美術作家、元新潟市美術館学芸係長 

倉田 久男
美術作家

小林 直司
新潟工業短期大学名誉教授 [法律学]、美術作家


佐藤やよい
美術作家

鈴木  力
美術作家

中川セツ子
美術作家


西村  満
美術作家

長谷川朝子
新潟美術学園園長、美術作家

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

情報出典:http://rencam.info/wp/
     新潟市美術館を考える会

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鑑賞構造とは何か?/糸崎公朗の作品 [アート論]



糸崎公朗さんから、高松市美術館での展示作品の画像と、
個人メールをいただきました。

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彦坂さま


このたびは高松市美術館に来ていただきまして、ありがとうございました。

アルテさんのついでであったとしても、高松まではそれなりに距離がありますので、京都から回って大変だったことと思います。

展示に関しては批判的なことは残念ですが、しかし丁寧で真摯な評論をしていただいたことに感謝します。

非常に興味深く、また刺激的な内容であり、有意義なものです。

ところで、ブログの返信にも書きましたが、高松市美術館での展示画像をお送りしますので、これを記事にお使いいただけますでしょうか。

特に「トランクの中の箱」と「リカちゃんハウス」については、展示に使用した双方とも「より似ているバージョン」を提示しないと、第三者に意味が伝わりづらいのではないかと思われます(たとえぼくが提示しようとする意味が間違っていようとも、です)。

お手数おかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。

彦坂さんのリアクションを待って、あらためてブログに返信させていただきます。


糸崎公朗


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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糸崎公朗の作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《第8次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》《象徴界》の2界をもつ表現。

              《現実界》《サントーム》は無い。

固体の表現気体/液体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。

《気晴らしアート》である。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》である。《ハイアート》性はない。
シニフィエ(記号内容)である。シニフィアン(記号表現)性は無い。

理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

糸崎公朗さんの作品には、芸術鑑賞構造性は無い。

《記録》を骨董を見る視覚で愛でている擬似的な鑑賞作品。

 


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糸崎さんの作品は、何なのか?

と考えると、紙づくりのジオラマとの類似性です。


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table.jpg
diorama.jpg
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sakurei_s.jpg

紙のジオラマに対する彦坂尚嘉責任による芸術分析

 
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン的エンターテイメント
 
《想像界》の表現。
液体の表現
《気晴らしアート》である。
《ローアート》である。
シニフィエ(記号内容)である。
 
 
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
 
《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》はある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジオラマには鑑賞構造性はあって、それは《愛玩》という構造です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

糸崎公朗さんの作品と並べてみます。


sakurei_sのコピー.jpg
鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《愛玩》
《記録》/骨董                     

ペーパージオラマと、糸崎公朗さんの作品は、
良く似ていているのですが、
一番根本的な差異は、ジオラマが《愛玩》という鑑賞構造で成立して
いるのに対して、糸崎公朗さんの作品は、鑑賞構造を持っていないのです。

しかし糸崎公朗さんの作品の《想像界》が、
《想像界》の眼で《第41次元〜超次元》の《真性の芸術》
であるということにおいて、優れていて、芸術になり得ています。

もうひとつは、ペーパージオラマが、液体美術=近代美術であのに、
糸崎公朗さんの作品は固体美術=前-近代美術であることです。



つまり糸崎公朗さんの作品を成立させている要素で大きいのは、
レトロ感覚と言う、骨董を愛でるという擬似鑑賞性なのです。

つまり糸崎公朗さんの作品に、鑑賞構造があるのではないのです。

糸崎公朗さんの作品が立つ基盤は、《記録》性で、記録というのは
芸術の鑑賞構造ではないのです。

鑑賞構造性が無いにも関わらず、それが骨董というレトロになることで、
擬似的な鑑賞性を持っているのです。

このように、鑑賞構造を持たないものを、あえて愛でるという、
擬似的な鑑賞ゲームをして楽しむという遊び性が、糸崎公朗さんの
作品の魅力であるのではないでしょうか。

それは糸崎公朗さんの作品が《気晴らしアート》であることと
深く結びついています。

人間が作り出すものには、鑑賞構造を持っているものと、
持っていないものがあります。


このことは、糸崎公朗さんと似ている作品として、
ジョージ・シーガルを思い出してみると、良く分かります。

Segal.jpg
シーガルの作品に対する彦坂尚嘉責任による芸術分析
 
《想像界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1〜6次元》の《真性の芸術》
 
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
液体の表現固体/気体/絶対零度/プラズマの4様態は無い。
 
《シリアス・アート》
《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)性の作品。
 
 
理性脳と原始脳の同時表示
《原始立体》『ペンキ絵』的作品 【B級美術】
 
《原芸術》《芸術》《反芸術》
《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の全てがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鑑賞構造としては《驚愕》性で成立している。


シーガルと糸崎公朗さんの作品を並べてみます。

糸崎Segal.jpg
鑑賞構造は無い。          鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                     

                   糸崎ジオラマSegal.jpg
鑑賞構造は無い。         鑑賞構造は《愛玩》    鑑賞構造は《驚愕》
《記録》/骨董                           
     

糸崎公朗さんさんの作品の軽さとか、ペラペラの薄さ感は、
素材が紙であるというだけではなくて、
鑑賞構造の有無の問題でもあるのです。

実は、糸崎公朗さんの作品と、デュシャンの作品は、
この鑑賞構造の無いということで、深い関連があるのです。
このことを論じるのは、次回ということで、お楽しみに。   

 

s-10.jpg
s-11.jpg

 



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