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直接性からはなれて [状況と歴史]

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先日の京都建築学生の会に呼ばれて、
鈴木 謙介氏とご一緒して、印象的であった事があります。

150作品くらいの学生の卒業制作の建築プランを見たのですが、
鈴木 謙介氏は、視覚では判断できないといわれて、
文章というか、建築プランにつけられているコンセプトを読んで、
判断する方法をとられていた事です。

私のように美術家、それも画家の系譜の人間ですと、
コンセプトで判断するよりも、視覚で判断することを優先します。

この違いは、何なのだろうか?
と考えます。

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比喩で言います。
たとえば電車の中で、乗客が暴行事件を起こして、
警察に連行されたとします。

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そうすると、警官が、事件の事情を聞いて、
調書を作ります。

この調書を、検察に送って、
検事が、この調書だけを読んで判断します。

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つまり
第1次世界・・・・暴行事件の当事者の直接体験。
第2次世界・・・・現場に立ち会っていない警官による調書の作成。
第3次世界・・・・調書だけを読んで判断する検察官の次元。

つまり現実に起きた暴行事件の直接性は、
調書という文字に置き換えられて、間接化しただけではなくて、
事件の直接の取り調べもしないで、文字だけに判断する検察官の
判断にゆだねられるのです。
もちろん、送検されて裁判になれば、さらに間接化されて、
裁判劇が展開するのです。

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鈴木 謙介さんは、社会学者ですが、
現実を、検察のように、文字化された調書で判断する立場にいる
ように見えました。

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建築模型というものに対しても、その視覚的判断を直接にする
のではなくて、
文字による間接化した調書のような次元でないと判断できない、
というのは、しかし、鈴木 謙介さんだけではなくて、
今日の社会の仕組みの基本を指し示しているようにも
思えました。

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美術作品も、その作品のコンセプトで評価すると、
たとえば松井冬子さんの作品は、
コンセプトの提示がうまいので、良い作品になります。
ところが現実の絵画は、視覚の芸術作品としての組み立てが
弱くて、彦坂尚嘉の判断は低いものになります。

つまり美術作品も、調書で評価するのか、
直接の視覚で鑑賞して判断するのかで、微妙に判断が変わります。

私が言おうとしているのは、実は作品以前の社会の構造の問題です。

社会というのは、この警察がつくり、検事が判断する調書のように、
現実世界から間接化した調書=文字の世界で、社会が判断される
かたちで、組み立てられているのです。

つまり直接生きている現実世界ではなくて、
警察官という官僚によって文字に置き換えられた調書で成立する
秩序の世界が、文明という次元なのです。

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エジプト文明が成立するためには、
夜に星の動きを観察して暦をつくることが、先ず重要でした。
つまり天体の動きを観測して、その記録で天体の調書をつくり、
そこに周期を発見して、暦をつくるということをしないと、
ナイル川の洪水の起きる周期を見いだし、予測する事が、
出来なかったのです。

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ナイル川の氾濫を予測しないと、農業が出来なかったのです。

この記録=調書を基盤として、
文明が起きます。
つまり書き文字の登場というのは。
このような調書による直接性の次元からの間接化という作業だった
のです。

農業というのは、こうした文字世界の間接性があって、
実現したものなのです。

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「木」という文字ひとつとっても、
現実の直接性の世界における木の多様性を、極度に間接化したのが、
「木」という文字なのです。

杉の木も「木」であり、
つつじの木も「木」であり。
柳の木も「木」であり、
木の机も「木」であり、
天井の板も「木」であり、
木の箸も「木」であるのです。

文字の次元というのは、直接性の次元を間接化する機能の面において、
大変にすぐれていたのです。

しかし文字が成立すると、
人間は、直接性の世界で、直接に判断するという能力が弱くなります。


文字だけで世界の多様性は捕まえられないのですが、
文字だけを信じる人びとが、官僚として、そして知識人として、
登場してくるのが、文明という世界なのです。

直接性の感覚を重視して生きて行く生き方をとるのか、
それとも書き文字を使う事で、現実の調書をつくって、
その文字という間接性で物事を判断するのか?

つまり人間は、直接性の世界と、
文字による文明の世界との2つの次元を往復して
生きて行く事が必要になるのですが、
この2つの世界を往復する事が、実はむずかしかったのです。

ある種の人びとは、本を読まないで、直接性の世界だけに
生きようとします。

逆にある種の人びとは、鈴木 謙介さんのように、
文字だけで判断して、直接性では判断できなくなります。

そしてある種の人びとは、
現実の直接性を測定して、言葉に置き換えて、
現実と文字の世界を往復することを重視するのです。

この分裂によって、世界と社会はなおさら複雑になったのです。

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写真の登場は、実は問題をさらに複雑します。
写真は文字ではなくて映像であって、直接性をもっていると
受け取られます。
しかし実は多くの事は写真には、写りません。

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例えば臭いです。
阪神淡路大震災の時の写真やテレビ映像と現実の違いがあって、
そのひとつは現場をおおう臭いでした。

映像というもの、あるいは漫画のような絵の情報も、
直接性があるのですが、しかしそれは現実そのものの直接性とは
違う感性性やバーチャル性をもっているのです。

視覚情報が増えてくると、この視覚情報による直接性を、
第一次現実の直接性と混同してしまうという事態になるのです。

「おたく」と呼ばれる人びとは、
漫画を含む画像や、音情報の直接性に、過度に適応した人びとです。

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つまり複製技術によるバーチャルな感覚を、第一次現実世界の
直接性であるかのように受け取って、そのバーチャルな次元を
リアルに生き始めた人間の登場です。

つまり今日の情報メディア世界では、第一次現実もまた、
複雑に分裂しているのです。
どれが現実なのかも、実は分からなくなっているとすら言えるほどに、
第一次直接性の次元が多様化して来ているのです。

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人間はどのように生きようが、結局は自分の脳をつかって、
脳の把握する世界と言う、
脳内リアリティでしか生きていないという、
現実が浮上して来ます。

しかも人間の脳は、道具をつかうことによって、
間接的にですが、変化しているのです。

平安時代の日本人の脳内リアリティと、
現在の日本人の脳内リアリティは、違うと推定できる
のではないでしょうか。

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平安時代の人間が、現在に突然来ても、
自動販売機で切符を買う事もできないでしょう。

人間は、文字だけではなくて、数式や、
コンピューター言語を開発する事で、
文明を多次元化するとともに、
同時に直接性の次元も多様化してきていて、
把握できないほどに複雑なものになって来ているのです。

この複雑さの中で、いかに生きるのか?

この問いの切実さが、現在の私たちにつきまとっているのです。

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「はじめにすべてあり」と言います。
現代が、どれほど複雑になっても、
文明の初期段階に、問題の本質があります。

ポンペイに古代都市を見に行くと、
今と変わらないということが実感されます。
ポンペイに行かれる事は、お薦めします。

文明の初期段階の文章や美術作品はやさしいので、
理解しやすいということがあるので、これを読む事です。

ギリシア哲学や、初期仏典、中国の諸氏百花、
そして旧約聖書、アラビアンナイトなどを読む事が、
一番重要であると考えます。

文明の本質が持つ《間接性》を理解しないと、
今日の世界の理不尽さに、圧倒されてしまうのです。

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